熊野古道を歩く
~明暗寺の虚無僧が興国寺へと辿った道~(参考音源「京鈴慕」)
貴志清一
いつ頃からでしょうか、普化宗の開祖が中国唐代の普化禅師でそれを日本に伝えたのが鎌倉時代の法燈国師という伝説が始まったのは。
いずれにしても江戸時代に虚無僧達は普化宗を名乗る訳ですから紀州(和歌山県)由良の興国寺開祖の法燈国師をその開祖としました。
京都明暗寺でも遠いですが紀州興国寺と本寺・末寺の関係を結びます。
それにより、明暗寺で住職の交代があった場合は必ず京都から和歌山へ足を運びました。
〈虚霊山明暗寺文献〉によれば、
中興渕月了源(1695年より第十四世)定め置く家訓二十三ヶ条に、
住職継ぎ目の儀は(新しい住職が決まれば)紀州日高郡鷲峯山興国寺へ登山せしめ、剃髪・受戒候上、入院いたし、妙法院・宮二条両奉行所へ継ぎ目御礼申し上げ候定法をも厳重に相い守るべく候。
このように決められています。
京都の明暗寺から徒歩でしょうか、淀川を船で行ったのでしょうか、とにかく大阪から和歌山へは紀州街道を通りました。
今回は短い区間ですが、虚無僧が通ったであろう紀州街道の一部を実際に歩いてみた時の報告です。因みに初代黒沢琴古(1710年生)は京都の宇治にある吸江庵(きゅうこうあん)で龍安という虚無僧から「志図曲」「京鈴慕」「琴三虚霊」の三曲を習得しています。
この中から京都に因んで「京鈴慕」をお聴きいただきながらお読み下さい。
音声資料 「京鈴慕」 ↓
https://comuso.sakuraweb.com/music/340-kyoureibo.mp3
江戸時代、紀州街道は比較的海岸に近いところを通っているのですが関西国際空港のある泉佐野市に入りますと山側に向かい、平安時代から続いてき
た熊野街道に入ります。正確に言えばかつての熊野詣、後鳥羽上皇にお供した藤原定家も通った熊野古道を紀州街道として使いました。
樫井川を南に渡ったところに厩戸王子(うまやどおうじ)があります。
(picture 1 )
古来九十九(つくも)王子と言われ、たくさんの熊野の神の分身を祭って道しるべとしました。
熊野街道なのですが、紀州街道でもあります。
厩戸王子をしばらく行くと信達宿になります。
(picture 2 )
宿場といっても東海道のような賑やかな場所ではありません。しかし御三家の紀州徳川家の殿様が参勤交代にも使いますのでその時の対応ができるようにはなっています。一番身分の高い人物が泊まるところを本陣といいました。
尺八愛好家必読の書『尺八古今集』を著した木幡吹月師は出雲本陣(重要文化財)の家柄でした。
古い街道沿いに歩いて行きますと信達本陣があり、普段は非公開なのですがこの日は特別公開日でした。というよりは、めったにない特別公開日なので出かけたのでした。
(picture 3 )
中へ入ると広い建物で伝来の家宝も展示されていました。野呂介石の南画、狩野探幽の掛け軸。少々感に打たれたのが八代将軍吉宗の宿帳。
( picture 4 )
「松平内蔵頭様」(まつだいら・くらのかみ・さま)
と読めます。
遊行上人休(やすみ)、すなわち遊行上人がここで休憩した控えもあります。享保時代の遊行上人というのは歴史に詳しくないので不明ですが、本陣を休憩所にできるのですから高僧なのだと思います。
同じ僧侶とはいっても、虚無僧はこういう所へは泊まれません。それどころか江戸後期には村で止宿を断られ、暴れ回ったという文書もたくさん残っているほどです。
明暗寺から紀州へむかった虚無僧は「本陣」を横目で見ながら通り過ぎたことでしょう。もしかするとこの信達本陣の近くで尺八を吹き門付け(托鉢)をして歩いたかも知れません。「京鈴慕」を吹きながら・・・
( picture 5 )
さて昔の面影をのこした紀州街道(熊野街道)はどんどん山側へと道をとり、雄ノ山峠を越えれば紀の国、和歌山です。
紀ノ川を渡れば熊野古道はまっすぐ南へ低い山伝いに海南市の藤白神社へ行き、藤代坂を越えて有田川の宮原、糸我峠を越えて湯浅へと続きます。 800年ほど前、藤原定家が苦労した
鹿ヶ瀬山を越えて
黒竹林を見ながら道成寺へと続き、海岸線を伝い田辺市へ出て中辺路へ入り、山また山を越えて熊野本宮 にたどり着くのが熊野古道です。
虚無僧は紀ノ川を渡り川沿いに行って若山城下に出たのでしょう。
お城を左に見てしばらく行くと綺麗な松林がありました。砂丘に植えられた松の根もとが表れ「根あがり」松と呼ばれました。
高い松も多かったので今でも「高松」という地名が残っています。幼い頃、私はこの「高松」、そしてその隣の「堀止」に一時住んでいたことがあり
ました。幼心に「ロバのパン」を買いに行った記憶があります。 それはともかく、たまたま『紀伊国名所図会』を見ていますと、まさにこの高松という所を南
に急ぐ虚無僧の挿絵がありました。
この図を見て、あながち京都から紀州街道を虚無僧が通ったのは私の想像の産物ではないのだと確信した次第です。
(picture 6 )
最後に、この図にそえられた狂歌を記します。
「和歌浦海道の往来に、御城府の繁栄、見へければ、
ね上がりの 高松なれば 魚売りの
朝な夕なに いさみかよへる
若山 蛍雪斎」
(意味)
根上の松で有名な高松という土地なので、
魚売りの声まで、ね=音が上がり、声高々に勇んで
朝夕、売りに来る