845年、長安での仏教大弾圧も経験した円仁の吹いた尺八
付:2022年5月3日、〈竹林に響く尺八の音〉コンサート 貴志清一
この長安での仏教大弾圧は世界史上有名な会昌の弾圧で時の皇帝は武宗。
不老不死を願って熱烈な道教の信者となった武宗は道教以外の宗教をことごとく弾圧します。
日本から来た高僧待遇の円仁も弾圧の対象となり還俗させられ国外追放の命令を受けます。
絶対的な皇帝の命令ですので拒否は死を意味します。
在唐10年、帰国希望していた円仁は渡りに船ということで早々長安を後にします。
しかし今や単なる根無し草のような異邦人となってしまった円仁は帰国の手段などあるはずありません。
これより9年前、838年の遣唐使の一行に加わって入唐したときに山東半島を中心に新羅人町を形成していた新羅人たちに
円仁は多大な援助を受けたのですが、今度も帰国について大きな助力を受けました。
ちなみに朝鮮はAD676年、唐の支配より独立して新羅という独立国になり統一新羅とよばれますが、
後に高麗に滅ぼされるのはこの後ですので、円仁の頃は新羅(人)でした。
平安時代は鎌倉以降と違い宗派の対立が激しくありませんでした。
それどころか後に神仏習合といわれるように、日本の古来からの神にも僧侶は深い信仰を持っていました。
嵐の時など船の中では僧侶は一心不乱に住吉の神に安全を祈っています。
日本とよく似ている新羅人ですので、山東半島の赤山(せきざん)にも新羅の神様が祀られいました。
円仁もこの赤山の神に大きな恩を感じていましたので自分の死後、この赤山の神を祭るように弟子達に言い残しました。
それが円仁864年入滅後24年後に比叡山に建てられた赤山禅院です。今もそれ以後ずっと手厚く祭られています。
さてこの入唐10年間、円仁はかなり克明な日記を残しています。『入唐求法巡礼行記』です。
この中で円仁は仏教寺院での法会の音楽が素晴らしいと感激しています。
梵唄(ぼんばい)といってお経に節をつけて歌うように唱えるものです。
これが後に日本音楽の大きな基礎になる声明というものです。
声明を唐から伝えた貢献者が円仁とされているように、この円仁の声明における功績は非常に大きなものがあります。
この伝統が天台声明といわれるものです。
『入唐求法巡礼行記』については(中公文庫・現代語訳+原文:中公と略)があり(東洋文庫・読み下し文+詳細な訳注:東洋と略記)。
そしてライシャワーの『世界史上の円仁』はこの抜粋を編集・英訳したものを邦訳した本です。(世界と略記)
「・・・蓮華の造花や旗を持った僧たちは・・声を揃えて梵唄をする。如来妙色身等の二行のほめたたえる詩である。
・・・この時の東西双方の梵唄の声は響き交わってすばらしいものがある。」(中公p98)
この日記の記事から仏教法会における"音楽の効用"を発見した円仁の感動が伝わってきます。
帰国後、天台座主にまで僧位を上り詰めるのですが長安の北、五台山での神秘体験などでいよいよ宗教家としての自覚を深めます。
入唐の大きな目的が密教のより体系的な導入だったのですが、阿弥陀経にも深く傾倒します。
中国に一緒に渡って円仁にずっと従っていた2人の弟子の内、惟暁(ゆいぎょう)が843年に病で没します。
その葬式の時に長安の7人の僧に頼み、阿弥陀仏の名号を十回唱えて惟暁が極楽世界に往生することを念じました。(中公p535)
特にこのありがたい阿弥陀経を節を付けて歌うように唱えるのが引声(いんぜい)阿弥陀経です。
円仁は帰朝の翌年848年に常行三昧堂を建ててこの引声阿弥陀経を伝えます。(世界p312年表)
後年、円仁が尺八を吹いてその節回しや音の高さなどを伝えた話が古事談に載っています。(『古事談』新日本古典文学大系p261)
尺八史に関する本、論説などでは必ず引用される話ですが、前後の脈絡から考察されることが少ないことも事実ですので全文掲載します。
慈覚大師、音声不足におはさしめ給ふ間、尺八を以て引声の阿弥陀経を吹き伝えしめ給ふ。
「成就如是 功徳荘厳」と云ふ所をえ吹かせ給はざりければ、常行堂の辰巳の松扉にて吹きあつかはせ給ひたりけるに、
空中に音(こえ)有りて告げて云はく、「や の音を加へよ」と云々。此より「如是や」と云ふ。「や」の音は加ふるなり。
(現代語訳)
慈覚大師円仁は声量不足でいらっしゃったので、声をのばして唱える阿弥陀経を(自分の声ではなく)尺八を吹いて音の高さ・長さ抑揚などを弟子に伝えられました。
その阿弥陀経の「成就如是 功徳荘厳」という箇所がどうも上手く吹けなかったので常行堂の東南の松の扉の所へ行って色々と吹き試されていらっしゃいました。
その時、空中からどこともなく声がして、「〈や〉という言葉を如是の後につけて、その節回しで吹け」と聞こえました。
教えられた通りにすると上手く吹く事ができるようになりました。
それ以後「如是」というところを「如是や」と〈や〉を入れて唱えるようになりました。
すなわち、円仁は尺八の演奏で弟子達に声明の音高、節回しなどを伝授したのです。
この説話から分かることは、
➀円仁が尺八を吹いた。
②尺八は声明の音高・抑揚などを教える道具として使った。
③宮中雅楽寮の尺八の先生・生徒だけでなく、僧侶なども尺八を吹いた。
以上の3点だと思います。
すなわち後世、普化尺八のように尺八の「音」そのものに全身全霊を込めて禅的悟りを啓くという虚無僧の宗教的修行とは異なっています。
さて、蛇足ながら円仁はどういう尺八を吹いたのでしょうか。
それは正倉院に残る表5孔裏1孔の6孔のいわゆる中国から伝わった古代尺八です。
これは尺八の歴史を見れば一目瞭然です。
西暦 618年李淵が唐を建国
(唐の時代に呂才が尺八を作ったとの記録あり)
遣唐使による唐との交流
701年大宝律令
○雅楽寮に尺八の師と生(徒)が規定される
(令集解)
○聖武天皇の遺品に古代尺八数管あり(正倉院)
794年平安遷都
○仁明天皇(833~849)の頃、楽制改革があり、
雅楽音楽より尺八が消える。
→この頃まで職業としての尺八奏者が存在した。
☆円仁が入唐(838)~帰朝(847)
重ねていいますと、円仁の頃はちょうど仁明の楽制改革時でしたのでまだ尺八師が国家公務員として存在していました。
彼らが吹いたのは古代尺八。ですので円仁も当然ながら正倉院に現物が残る古代尺八型の尺八を吹いたことは明らかです。
その後尺八は記録からほとんど消えて謎の500年間を経て、突如南北朝時代に後醍醐天皇皇子・筑紫の宮が吹き、一休に代表されるように
室町時代に後世一節切と称される5孔の一節切が流行します。
この謎の500年というのはなかなか興味のある問題ですが、その解明は今後の若い尺八史研究家にまかせましょう。
ところでこの1400年も続いている尺八ですが、コロナ禍も少しましになってきました。
2022年5月3日には「竹林に響く竹の音」というコンサートを開催します。関西方面からのご来場をお待ちしております。
詳しくはHPトップページの「演奏会案内」を見てください。