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      幻の三節切・天吹、戦火を生きのび戦禍に消える 貴志清一

 コロナ禍によりまとまった時間がとれていますので目下、三節切(みよぎり)のことについて調べています。
虚無僧尺八は1500年には3節の薦僧の尺八として確認できそうなのですが、もうひとつ、天吹(てんぷく)という尺八の仲間が存在しました
。これは3節でできています。薩摩の郷士教育に薩摩琵琶とともに使われた楽器です。
1543年から盛んに来航したポルトガル人が日本語とポルトガル語の辞書を作ったのが日葡辞書。
ここに「テンプク(天吹)」が出てきます。薩摩だけの笛ではなかったようです。
ただ、まだまだ研究を深めなければならない一節切に比べると、全く分からないことが多いという、まさに幻の三節切です。
今後、三節切と天吹との関係についての研究が必須なので若い研究者にはがんばってほしいと思います。
参考画像は 天吹の保存、普及に精力的に取り組んでいらっしゃる島津義秀氏に製作していただいた天吹です。


 ちなみに氏は加治木島津家第十三代当主。ちょうど徳川家に御三家があるごとく島津氏にも島津四家があり本家が世継ぎを立てられない時にこれらの家から後継者を出します。精矛神社宮司でもあり薩摩武士道の野太刀自顕流、また薩摩琵琶の弾奏者です。
私事に渉り恐縮ですが、不思議な縁で氏の御母堂は私の家内のピアノの先生で公私ともに多大なお世話になっている方です。
 先にも述べましたとおり天吹の歴史は不明な点が多いのですが、最近まで関ヶ原の戦いで吹かれた天吹が代々守られてきた話を転載せさせていただきます。
「戦火を生きのび戦禍」の一つ目は1600年の関ヶ原の戦いで鉄砲(火器)が戦争の重要な武器となったことによる戦火。
2つめは太平洋戦争中の本土空襲による丸腰の民間人無差別殺戮による戦禍です。
(『用と美-南日本の民芸』南日本新聞社1977年、p186~より転載)

 天吹
 慶長五年(1600)の九月十五目。徳川家康は石田三成の率いる西軍を関ケ原に打ち破った。
三成勢の闘将島津義弘は、退却に際して大胆にも敵前突破を敢行した。この奇襲作戦に徳川方は少なからず驚いた。
ところが、家康の家巨山口議兵衝尚友の屯所に、義弘の将兵らしい武士がただ一騎、引き返してくるのが見えた。
徳川の手勢にたちまち取り囲まれ、危うく首を落されそうになったその武士は、従容として叫んだ
「しばらく待たれよ。それがし、かかる恥辱を受けたるはただこの一管の天吹のためである。
願わくば今生の思い出に一曲を許されよ」と。今は敵の屯所とかわったその草むらに、前夜月明を仰いで朗々と吹いた管であった。
戦況急転したため、彼はそれを置き忘れて走ったのである。敵将も武士であった。彼は吹くことを許された。しばし目をつむり、歌口をしめして、やがて吹いた。
その豪放な響きは、 寥々として血の戦場を清めて流れた。声一つなかった。間もなくそれは家康の耳にも入った。
さすが天下の大将である。「まことこ良臣。決して殺すでないぞ」‥…。
そこで武士は主君に追いつき、故山に帰ることができた。子孫はのち、鹿児島城下の新屋敷に住み、ゆかりの天吹は助命器と名づけて代々に伝わった。
“その風流の武士こそ、離摩天吹を一躍天下に名高くした北原肥前守掃部助である。
歴史は流れた。昭和二十年五月二十六日。西郷隆盛銅像の製作者として有名な彫刻家の安藤照氏が、東京都渋谷区代々木初台の自宅で悲惨な死をとげた。
アメリカ空軍による爆死であった。愛嬢を膝にしっかりと抱き、端座したままの安藤さんの焼死体が防空濠から発見されたとき、人々は声をあげて泣いた。
それは安藤さんの芸術を惜しむ人のみならず、天吹愛好家にとっても痛ましい報せになった。
安藤家はかつて肥前守掃部助の一族で、照さんはその家伝を受けつぐ最後の名手だったからである。
名器〈助命〉の一管も戦火とともに消えた。
天吹はテンプキまたはテンプク。地元の人はテンプッとつまって発音する。
尺八の長さ一尺八寸(なかには一尺三寸から二尺二寸まであるが)に比べ、天吹は一尺内外、太さも一寸五分ていどの小管である。
「海辺の潮風に吹かれた竹ほど音色がまさる」といって、鹿児島城下では、磯海岸の裏山や花倉附近の竹が選ばれた。
竹は必ず三節なければならない。最上段から天節、人節、地節といって、天地人にかたどり、この三節でわかれた四間を、さらに四季をもって名づける。
第一管を秋(万物熟し収斂の象)第二間を夏(陽気成長の象)第三間を春(陽気発生の象)第四間を冬(陽気閉蔵の象)としている。
上端の一方を斜めに削って〈歌口〉を作り、また夏間と春間に指穴を二つずつ、それと反対の表側に一つの穴があって、これらの指穴は七曜の日月をのぞいた五星を名づける。
つまり表側の上から金穴、水穴、火穴、木穴、裏を土穴と呼ぶ。竹は火であぶって脂をぬき、布巾をかけてみがく。
天吹の起こりは古い。田辺尚雄博士は「薩摩天吹は今日きわめてまれな存在となった。
この楽器は虚無僧尺八の発達の歴史を研究するうえで重要である」といっている。
古代尺八の減びたあと、室町中期に一節の尺八、いわゅる〈一節切り〉があらわれた。
中国の禅僧が伝えたといわれるが、薩摩天吹をその祖型とする説もある。
『お家兵法純粋見聞秘話』によると、島津忠良(日新斉)は武士の修養と娯楽に、薩摩琵琶と天吹を奨励したとある。
また天吹の名は、大祓いの祝詞「天の八重雲を吹き放つことの如く」からとった、との説がある。
その音が、朝の霧、タベの雲を吹きはらう風のように、罪という罪をはらい清める……といぅのである。
尺八は西方に起こり、中国をへて日本に伝わった。天吹はそれとは別の源に発して、まったく独自の発達をみた。
蔭摩古来の管楽器であって、土佐の一絃琴などとともに、わが邦楽史上、 ユニークな存在となっている。
曲はせいぜい十曲ていど。郷上史家の久井稲穂氏によると「仙兵衛どんの墓詣り」「糸屋仁右衛門さん」「何とかどん」「高音」「筒音」「調べ」などでぁる。
近代尺八のように楽譜があるわけでなく、保存はますます困難であった。
そこで昭和二十六年、有志が協議して、当時東京に住んでいた太田忠正さんを迎えた。
安藤さん亡きあと、この人をおいて天吹の正統を伝える人は見あたらなかった。
大田さんは天吹同好会をつくって、後進に手ほどきし、天吹の製作もやったが、三十四年春、七十二歳で亡くなった。
その名曲は録音テープにおさめられ、伝統を絶やすまいとする人たちにょって保存、研究されているが、薩摩天吹の命脈いよいよ細まった感が深い。(以上転載終)