検証「竹籟五章」
今から半世紀ほど前、尺八を使った現代音楽が作曲されたことがあります。この竹籟五章もそのひとつです。
"現代音楽"の定義や時代の決定は曖昧ですがとりあえずここでは、
○第2次世界大戦後(1945)から1970年ごろまでの西洋クラッシック音楽の主流、としておきます。
これは「前衛の時代」とも呼ばれています。
1970年以降は「前衛の停滞期」に入ってこの頃より過去の音楽への回帰の風潮が強まり現代に至ります。
現代音楽、または前衛音楽の特徴は、
➀無調への傾倒
②不協和音の多用
すなわち一般の人にとっては「訳の分からない」音楽といえます。
この前衛音楽が流行していた1964年、東京オリンピックの年に西洋クラッシック畑の諸井誠(1930-2013)が現代音楽曲として尺八を使った「竹籟五章」を書きます。それが時代の流れに乗ったのでしょう、LPレコードにまでなりました。幸か不幸か、50年ほど経った現在では誰も見向きもしなくなりました。しかし半世紀前に尺八を使ったこういう音楽が存在したという歴史的事実は記録に残して後世の参考にすることも必要だと思います。
私自身は一回も人前での演奏で吹かなかった曲ですが、少し曲の内容を検討してみたいと思います。
ここでは第1章「芬陀」(ふんだ)と四章「破竹」(はちく)を例に取ります。楽譜は文末です。
○「芬陀」
琴古流の十八番(おはこ)の「ツメリ~ツ
レ~~」をもじった「乙ツメリ甲ツ乙チーーー」で始まります。
(楽譜の中の➀参照、以下同じ)
伝統から逃れる為の必死の音変換なのでしょう。
②の音の並びは聴く人を不安もしくは不快にさせる西洋音楽理論の「減・増」音程を多用しています。
③の箇所の「叫ぶ」ような3オクターブのA♭(キ)は自然な竹としての地無し管では全く出ない音です。
○「破竹」
➀は始めからタンギングです。タンギングというのは「タン(舌)」を使って音を切ることで子音の多い言語文化で発達したものです。それを日本語にとって自然な「こぶし」や「押し指」が似合う尺八に強要するのは問題があります。尺八の良さを殺しかねない技法です。またこのところのリズムも変拍子的で不自然です。もちろん「自然」なことを否定して意図的に「不自然さ」を目指したのが現代音楽なのですけれど。
⑤は不自然そのものの音の並びです。
以上簡単な検証をしてきましたが、実際に自分で試しに吹いて見ました。
私個人に限って言えば「竹籟五章」は全く尺八の持っている本来の良さが生かされない、どう考えても"音のゴミ"のような感じがします。さて、みなさまはどうでしょう。
私の演奏の未熟さがそう思わせるかも知れませんので、公平を期すためにLPレコードの本来の「竹籟五章」をお聴き下さいまして、各自で今一度ご検討ください。