戻る
 尺八名人 聖徳太子
                                                                    貴志清一
 聖徳太子は尺八演奏に堪能でした。
『続教訓抄』十一の上、吹物:尺八の項に、
「昔、聖徳太子、生馬(駒)山にて尺八を以て蘇莫者(そまくしゃと言う曲)をあそばす。と云へり。即ち法隆寺の宝物の中に尺八一管これあり。むかしの御物と云へり。
 このようにあります。
 聖徳太子が人生の後半に住んだ斑鳩の宮、今の法隆寺がある辺りから馬に乗って西に向かえばそこはもう生駒山の麓です。
 ちなみに法隆寺の尺八は表5孔裏1孔の古代尺八で、明治になり皇室に献上されました。
『舞曲口伝』蘇莫者の項には、
「此の舞は昔 役行者(えんのぎょうじゃ)小角(おづぬ)、大峯をとおり給ひけるに、笛又は尺八にて吹き給ひけるに、山神賞で、舞い給ふと云々。件の出現峰をば蘇莫者の岳となづけたり。
 また、聖徳太子、河内の亀瀬にて馬上にして、尺八をもてあそばしけるに、山神出でて舞いたる由、法隆寺の絵殿に説き侍りとあり」
 
 すなわち尺八を吹くとこの世ならぬ神が感応して出現し楽にあわせて舞うほどの演奏を聖徳太子がした、ということです。
10人の訴えを一度に聴くことができたという耳の良い太子ですから、音楽を聴くことにも優れていたのでしょう。
 ちなみに日本修験道の開祖のような役行者まで尺八を吹いたというのはいつまで経っても大峯山登山初心者の私にとってたいへん興味深い話です。
 実際に今でもこの蘇莫岳はありまして、わたくしもいつかは行ってみたい釈迦ヶ岳の手前の山です。前鬼の小中坊を起点に釈迦ヶ岳をピストン(往復)すると何とか1泊2日で行けそうなのですが、さて何時行けることでしょうか。
(蘇莫岳の地図画像)

 
 さて聖徳太子と言えば憲法十七条が有名です。
「和を以て貴しとなし、さかふること無きを宗とせよ」
「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」
「心のいかりを絶ち、おもへりのいかりを棄てて、人の違うことを怒らざれ」
 この条項からは慈悲にあふれた仏教者、穏やかな平和主義者、尺八を愛し芸術を愛した菩薩のような聖人・聖徳太子の姿が浮かんできます。
 こんなすばらしい言葉がちりばめられた憲法十七条は『日本書紀』という歴史書に載っています。
 久し振りに確認のために岩波・日本古典文学大系『日本書紀下』を繙きますと「推古天皇十二年(甲子604年)の項にありました。
   
 A.D.604年を去ること17年前の崇峻天皇のとき朝廷内部では物部氏と蘇我氏の対立がありました。仏教を受容するかしないか、崇仏・廃仏の争いという名目の豪族間の勢力争いが続いていましたが、ついに587年に武力による戦いになりました。物部氏の筆頭は物部守屋(もりや)、蘇我氏は蘇我馬子です。(『日本書紀』岩波体系p.162)
 この時に蘇我氏連合軍についたのが厩戸皇子(うまやどのみこ)聖徳太子です。太子誕生を574年とすると弱冠13才の時です。(山川日本史小辞典)
 蘇我氏軍が苦戦しているとき太子は「もしかすると、負けるかも知れない。ここは一つ仏に祈って願いを叶えて貰うしかない」と極めて現世利益的な祈り、敵調伏をしました。仏教で戦を代表するのが四天王で、「もし自分の軍が勝った暁には四天王のために寺を建てて供養します」と祈ります。
 この平和的とは決して言えない祈りが効を奏したのか、物部守屋に矢が命中し結局物部氏は滅んでしまいます。
 恐らく戦場は血の海と化したでしょう。日本書紀はまた次の記録の載せています。
 
「捕鳥部万は6世紀に朝廷で権勢を誇った大豪族物部守屋に仕えた兵士でしたが、587年、守屋は、河内で蘇我馬子や聖徳太子らの軍勢に責め滅ぼされました。難波方面の守備にあたっていた万は、主君が滅ぼされたことを聞くと、妻の家がある有真香邑(ありまかむら)に逃れましたが、朝廷からの追撃をうけ、自害しました。有真香邑は今の阿間河滝・神須屋・八田・真上・畑・流木・極楽寺町一帯にあたります。朝廷は万の死骸を八つ裂きにせよ、と命じましたが、万が飼っていた一匹の犬が万の死骸の側を離れず、万の首を咥えて古い墓に納め、犬はその墓の上に伏したまま、死んでしまいました。この報告を受けた朝廷は、世にも珍しい忠義深い犬だとして、万と犬の墓を作らせて丁重に葬ることにしました。
 これは『日本書紀』に記された逸話です。だんじり祭で有名な大阪・岸和田市の天神山町にある天神山古墳群のうちの大山大塚古墳と、義犬塚古墳が万と犬の墓と伝えられています。」
 https://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/3/toribeno-yorozu.html
 私も今、白い大型犬を飼っていますのでこの忠犬は人ごととは思えません。ちょうどこの墓が泉南市の自宅から1時間ほどの所にありますので見に行きました。
 1500年前の話ですが、実際に古墳の上にある捕鳥部萬のお墓を見ますと思わず黙祷せずには入られませんでした。
(墓の写真)
 
 実際に聖徳太子を含む朝廷では血に飢えた虎のように蘇我軍に敵対した捕鳥部萬(ととりべのよろず)を死んでいるにも関わらず「八段に斬りて、八つの国に散らし串させ」、すなわち死骸を8つに斬って八カ国に分配してその肉を串刺しにして(飾れ)という命令を出しました。
 祈り殺すことができた聖徳太子は、約束に違わず寺を建てます。それが四天王寺です。JR天王寺駅がありますが、この天王寺はもちろん「四天王寺」の略です。
 このお寺は不思議で、鳥居をくぐってから境内に入ります。お寺に鳥居はそぐわないと思いませんか。
( 鳥居の画像)

 この四天王寺の場所は、もともと物部氏のものなのでした。場所も日本書紀では「荒陵」(あらはか)すなわち「荒れた古墳」です。四天王寺は私も何回か「古典尺八・聖徳太子奉賛会尺八献奏会」で吹奏させて頂いたところです。
 最近気がついたのですが、なんと四天王寺の中に「守屋の祠」があるのです。祠(ほこら)ですから、物部守屋を神として祀っているわけです。殺害され、滅ぼされた者が怨霊として暴れるまえに、神として祀りなだめようというのでしょうか。実は四天王寺の入り口鳥居の直線上にこの守屋の祠があります。
 これを最近行った四天王寺さんでもらったパンフレットで確認しましょう。
 (四天王寺境内図)

 図を見ますと、石の鳥居をくぐって一直線のところに守屋の祠があります。すなわち、この一直線の鳥居からの道は祠への参道なのです。祠ですから神社ですね。その証拠に守屋の祠は小さな神社の建物です。
(守屋の祠写真)


 四天王寺は寺院と神社の両方の機能を持たせていると言うことでしょうか。そしてこの参道が興味深いですね。
 物部守屋の魂魄が祠を出て鳥居を通って出ようと想定します。
 すると、まず聖徳太子を祀っている「太子殿の奥殿」でストップ1がかかります。「出たらあかん!」と聖徳太子が止めます。
 それを振り切っても太子殿を囲む塀の門でストップ2です。
 それをぶち抜いても東門が開かずの扉になっていますのでストップ3です。何とかそこもぶち抜いて進みますと右に霊力旺盛な聖徳太子になぞられる救世観音、五重塔の仏舎利によってストップ4です。
 次の西門は通常開いていますが、守屋が来ますと閉めます。すとっぷ5。西に進んだ極楽門も「おまえは極楽になんか行けないよ」と閉められてストップ6。それらをなんとかかわしてやっと石の鳥居にたどり着きます。この鳥居も聖徳太子以下、しっかり守って通せんぼするでしょうからストップ7です。
 七転び八起きで、7重になっている障壁を越えて進みますと、この四天王寺のある上町台地の下は飛鳥時代には難波(なにわ)の津で海です。復讐すべき敵は奈良の飛鳥ですから方向が違いますし遠いですので守屋の怨霊は力尽きて難波の宗右衛門町でお酒でも飲んで憂さを晴らさざるを得ません。 
 四天王寺はもしかすると巧妙に計画された物部守屋の怨霊出現防止装置なのかもしれません。
 以上は私のような歴史のド素人の考えた妄想かも知れませんが、実際はどうだったのでしょう。
 それにしましても、主人の遺骸を守って死んでいった忠犬シロの話は感動ものだと思います。