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        尺八の音色〜海の声 小泉八雲集(新潮文庫)
                                                                    貴志清一
 1850年に生まれたラフカディオ・ハーンは40才の時に来日します。『古事記』の英訳に触発されその日本へのあこがれが実現したわけです。八百万の神が神無月に集う松江にやってきました。中学校の外国人英語教師として歓迎されるのですが寸暇を惜しんで日本の民俗について研究します。熊本高等学校を経て1896年には東京帝国大学英文科講師として迎えられます。すでに国際的に名前が通りしかもその講義内容も素晴らしいものでしたので、その後任のような形で引き継いだ夏目漱石は悲惨なものでした。もちろん漱石は数年ほどで嫌気が差して大学を辞めてしまいました。
 さて、1896年に帰化して小泉八雲と名乗るのですが、日本に関する著作の数々は今なお色あせず広く大勢の人々に愛読されています。特に耳なし芳一を載せた『怪談』は有名です。その他には、
『日本の面影』Glimpses of Unfamiliar Japan(1894)
『心』Kokoro(1896)
『仏土の落穂』Gleanings in Buddha-Field(1897)
(この中には教科書にも載ったことのある「稲むらの火」があります)
 タイトルは「生神」)
『霊の日本』In Ghostly Japan(1899)
『骨董』Kotto(1902)
『怪談』Kwaidan(1904)
 いずれも邦訳が出ていて手に入りやすいのでご一読をお勧めします。尺八演奏者、音楽を志す人にとってどの著作も興味深い内容です。
 
さて、In Ghostly Japan『霊の日本にて』の中に「焼津にて」という紀行文があります。
 漁村であった焼津を訪れたときの記事です。
 
 広い海を見、またその波や打ち寄せる大きなリズム(律動)を感じたときは誰しも何か深い感動のようなものを感じるものです。
 波の音も含めた「海の声」のような音響も何か深く心を揺り動かす者です。その海の声は少し大げさかも知れませんが世界のすべての音を含むような感じです。
 ハーンもこう書いています。(『小泉八雲集』新潮文庫p387)
 
「・・・そしておそらく、怒濤のごときうねりを見、その咆哮(ほうこう)を耳にして、厳粛な思いに打たれなかった者はなかったであろう。
 わたしは、馬や牛のような獣でさえ、海の前では瞑想的になるのを知っている。」
 
 私事に亘りますが、私の家から歩いて15分ほどで泉南の海岸にでます。大型犬を飼っていますのでよく散歩に連れて行きますが、「動物でさえ海の前では瞑想的になる」という文章がよく分かります。
 陸上動物とはいえ、元は海から生まれたものですので何か大きな自然を感じるのかもしれません。
 
 
p389には、
「海の声が、われわれを厳粛にするのは、なんと不思議なことであろうか」
p390
「しかし、海の声よりもはるかに深く、しかもより奇妙にわれわれの心を動かす音がある。・・・それは音楽の音色である」
「偉大な音楽は、われわれのうちにひそむ過去の秘密を、思いもよらぬ深さにまでかき立てる、霊魂のあらしである。
・・・青春と歓喜と優しさの、あらゆる霊魂を呼び覚ます音色がある。
今は滅んだ熱情のあらゆる幻の苦痛を呼び起こす音色がある。
威厳と力と栄光のもはや失せた感覚−消えた歓喜−忘れられた寛容を、すべて生き返らせる音色がある。」
 
 尺八の音色はとくに地無し管の音は何か「海の声」「波の音」を暗示しているように感じます。地塗り管も地無し管も両方修行している私ですが、「いつまでも吹いていたい」と感じるのはやはり地無しの方です。もちろん尺八の音色自体が「吹いていたい」音であることは確実なのですが。
 
 そういうことを再認識させてくれたのがこの小泉八雲の文章でした。
 少しですがこの「焼津にて」の一部分をお読みいただければ幸いです。
 
p388より
 その晩、私はずっと横になったまま目を覚まして、巨大な潮が、咆哮し砕ける音に耳を澄ませていた。はっきりした激しい衝撃の音、近くの波の押し寄せる音よりも、更に太く低く、遠い寄せ波の低音が聞こえる−それは、建物も震えるばかりの、絶え間ない底知れぬつぶやきである−無数の騎兵隊の蹄の音や、無数の砲車の群がり寄せる音のように−登りつつある太陽から、全世界にも亘る大軍の突進する音かとばかり、想像されるのであった。
 やがて私は、子供の頃、海の声に耳を澄ませたときに抱いた、おぼろげな恐怖心を思い出していた。
 (中略)
 そして、私はひとりつぶやいた−海の声が、我々を厳粛にするのは、何と不思議なことであろうか、と。
 (中略)
 しかし、海の声よりもはるかに深く、しかもより奇妙に我々の心を動かす音がある−我々を、時には厳粛に、更にひどく厳粛にさせる音が−それは音楽の音色であろう。
 偉大な音楽は、我々の内に潜む過去の秘密を、思いもよらぬ深さにまでかき立てる、霊魂の嵐である。或いは、それは−色々異なった楽器と声とが、何十億という色々異なった出生前の記憶に、別々に訴える−驚くべき魔法と言えるかも知れない。青春と歓喜と優しさのあらゆる霊魂を呼び覚ます音色がある−今は滅んだ熱情のあらゆる幻の苦痛を呼び起こす音色がある−尊厳と力と栄光のもはや失せた感覚−消えた歓喜−忘れられた寛容を、全て生き返らせる音色がある。(中略)
 音楽が一種の魔法であること−旋律のあらゆるさざ波に対し、和音のあらゆる大波に対し、死と誕生の大海原から、古い快楽と苦痛のある無限の渦が、心の内に応えるような気がするのである。
 快楽と苦痛。これらは常に、偉大な音楽の内に混ざり合っている。であればこそ、音楽は、大洋の声、あるいは他のいかなる声も為し得ないほど、深い感動を与えることができるのである。
 (後略)