作曲者とその年代が判っている古典本曲「夕暮」(琴古流) (音声資料) 貴志清一
乙音ツのカリから滑らかにツメリに下がり、細かい二打ちから始まったメリ音はだんだん緩やかになりレ音につながります。この曲特有のウウチナ
ヤシチの時に一瞬四押しが印象的に入り、夕暮時の物悲しい雰囲気を醸し出します。中間部では高音になり、ウ三から擦り上げてヒに持っていくところも胸が締
め付けられるような悲しみに満ちています。
琴古流本曲の中でも際だって個性的な名曲が「夕暮の曲」なのですが、この曲は伝承とはいえ作曲者も作曲年代も判っている唯一のものです。
今回も「夕暮の曲」を聴きながらその由来をお読みいただければ幸いです。
出典は寛政年間(1789フランス革命の年~1801)、神澤貞幹の書いた随筆『翁草』の中の一節からです。これは
『尺八史考』に載っていまして、国会図書館デジタルライブラリーにて閲覧可能です。
(原文)
仙院(霊元天皇の御事)いまし給ふある秋の暮つかた、御苑の高殿にて御つれづれの御遊の折から、何地ともなく籟(らい)の音の風にたぐへて吹
おくれる其聲、怨るが如く慕ふが如くただならぬを、院聞召て御童に勅有て、其籟の行衞を求めさせらるるに、仕丁の輩、御築地の裏京極街の邊へ立出てみれ
ば、獨の普化僧の街を通る手ずさみにてぞ有ける。
則渠(かれ)をいざないて御所へ帰り参、かくと奏ずれば、今の一手は何と云曲也やと人をして尋ねさせ給ふに、薦僧云、只今吹すさみ候は名のある
曲にては候はず、何となく秋暮の物悲しきに感じ候て、時の調子をはからずもしらべ候のみに御座候と申上げければ、その者此能に堪たりと叡感有て、渠が名を
も尋させられ、今の一手に「夕暮」といふ勅銘を下さる儘、此後に、一曲に定むべしとの御事にて、御かづけ物などを賜ひ、時の面目を施し
こも僧は退出せり、夫より此一曲を端手の組に入れて今も是を吹とかや、其こも僧は鈴木了仙となん云る、正徳享保の始迄も在し尺八の妙手なりと承伝。
このままでは今の若い尺八奏者には意味がよくわからないかも知れませんので享保の始めが1716年~、また霊元天皇の在位が1663~1687年と言うことを念頭に訳文をお読み下さい。
(訳文)
1663~1687年の在位であった霊元天皇の世のことです。ある秋の夕暮れの頃、京都の内裏の高殿でゆったりと管弦の合奏をなさっていらっ
しゃった時、どこからともなく竹の音が風に乗って聞こえてきました。その音は何かを怨むようであり、また誰かを慕うようであり、感情を揺さぶるような音
だったのを霊元天皇がお聞きになり、その音の主を確かめるように側で仕えている童子に命じました。
童子は出仕している仕丁達に跡を追うように指示したところ、内裏の築地の裏の京極街の辺りまで追いかけました。そこに一人の普化僧が尺八を吹きながら歩いていました。
さっそくその虚無僧を伴って仕丁達は御所へ帰り、ことの次第を申し上げました。
天皇は、
「今吹いたのは何という名前の曲なのか」と側近を通してお尋ねになりますと虚無僧は、
「今吹いたのは名前のついている曲ではありません。何となく秋の夕暮れの物悲しさに心が動き"時の調子"、すなわち秋の調子である平調の調子を何とはなく吹いたまででございます。」と申し上げた。天皇は、
「この普化僧は尺八にたいへん優れた者である」と感動されて、その薦僧の名前もお聞きになられました。天皇は、
「今吹いた演奏に"夕暮"と名付けよ」と曲名を与え、今からはこの曲を本曲の一つにしなさいとも仰せられ、虚無僧は褒美までも賜りたいそう光栄な思いをしながら御所から退出しました。
この一件以来この「夕暮」という曲を本曲の2分類である本手・端手の内、端手組に入れて今でもこの曲を吹いています。
その名誉を賜った薦僧は鈴木了仙とかいう人です。了仙は正徳・享保の始め、すなわち1716年ちょっと過ぎた頃まで存命だった尺八の名人と聞いています。(以上、訳文)
○ここで、本文の
「時の調子をはからずもしらべ候」の訳文が、
「すなわち秋の調子である平調の調子を何とはなく吹いたまででございます。」となるかについて解説いたします。
古くから春夏秋冬そして土用にはそれぞれ相応しい「調」(音の高さ)というのがありました。
一節切最古の解説を含む写本譜である「短笛秘伝譜(1608)」の中に「四季五音のこと」という章があります。
夏に相応しい「調」は主音が黄鐘(A)の調子です。
一覧にしますと、
春=双調(G)、夏=黄鐘(A)、土用=一越(D)、秋=平調(E)、冬=盤渉(B)となります。
この普化僧が時の調子を調べたのは秋ですから主音が「平調」(E)の律音階もしくは呂音階だとわかるのです。