口腔前庭、それは上唇裏の融通無碍な空気玉
虚竹禅師像~酒井竹保映像にヒントを得て
貴志清一
音を自由自在にコントロールできる魔法の杖とも言うべき「口腔前庭理論」を公にしたのが1989年でした。それは邦楽ジャーナル誌に4,5回の連載されたものです。
当時は長らく尺八を吹いていても「春の海」をスラスラ演奏できる人が少ない時代でした。この理論がようやく広まり、今では「春の海」などは"
普通に吹ける"曲になっているほどです。尺八の音のコントロールが上唇裏の空気部屋=口腔前庭によって楽にできるのですから、この20数年間の尺八吹奏レ
ベルの向上は私にとってとても嬉しいことです。
一方、あまりに"口腔前庭理論"が当たり前すぎて、自称プロの演奏者の中には、
「上唇裏の空気部屋?口腔前庭?尺八を吹けばそこに空気が自然にたまるでしょう」
こういう風に言って、ご自身はこの空気部屋を有効に自由自在にあやつりビュービュー演奏をするのですが、素人の方でこの理論が分からず音出しですら困っている人たちの気持ちは分かっていないようです。
かく言う私も「口腔前庭理論は『尺八吹奏法Ⅱ』で詳しく書いているので、読めば分かると思います」ということで最近はこれについての講習会さえもしなくなりました。
私の所へ習いに来ているお弟子さんたちですら「もしかすると、口腔前庭理論が、正しく理解できていないのではないか。そして上唇裏に空間があるということで満足しているのではないか?」と最近考え始めました。
お稽古時にいろいろ私の生徒を観察するうちに、この口腔前庭理論のより分かりやすいイメージが必要だと感じるようになりました。
それが、
口腔前庭は単なる空間ではなく、
それは上唇裏の融通無碍な空気玉
「空気玉」・・・このイメージで考えますと、「玉」ですからそれを圧縮したり、大きくしたり、極限まで小さくしたり・・・・と自由自在に変化させることができます。
音を口腔前庭で自在にコントロールしている奏者は「空気玉」といったイメージでなくても各自の感覚で十分なのですが、口腔前庭理論ができていない人にとっては「空気玉」のイメージは有効なのではないかと思います。
実際、お稽古時にある生徒さんに「空気玉」の説明をしたところ、「より分かりやすくなりました」との感想でした。
ここで再度「口腔前庭理論」をおさらいしましょう。『尺八吹奏法Ⅱ」の該当箇所を転載します。
6,上唇裏の口腔前庭について
(下唇裏の口腔前庭は作らない方がよい結果が得られる。)
この口腔前庭は、尺八吹奏にとってひとつの“コツ”に当たります。
口腔前庭というのは息を出す時にできる、上唇裏のごく小さな空気部屋のことです。
下唇の裏にもこの口腔前庭はできるのですが、その場合ややもすれば下歯による気流の阻害と言う問題がでてきますので、吹奏時には下唇裏の口腔前庭は不要だと思います。
前にも述べたように、下歯による気流の阻害がない状態を体感するには口笛を吹くのが一番良い方法です。
さて、口腔前庭と言う言葉を始めて聞いた人もいるかも知れません。図を見て下さい。
(fig1)
分かりやすくするために口を閉じて息をためて下さい。上唇を軽く押さえますとそこに小さな空気の部屋ができていることが分かるでしょう。この部屋のことを口腔前庭と言うのです。
実際の演奏ではこの口腔前庭はそんなに大きな空間ではありません。ほんの少しの意識しなければあるかないか分からないほどの隙間です。
この口腔前庭は、吹くことによって形成されるもので吹いていないときはできません。音に応じてこの口腔前庭に少し空気がたまりますと音のコントロールが良くなります。
ただし、口腔前庭に空気をためることを目的にしてはいけません。そうしたときには、一番肝心の「唇の丸み」が阻害され、ややもすると下歯が気流を阻害するのです。気をつけて下さい。
腹式呼吸のための肺はいわば大きな“空気のタンク”です。それは大きな空気の柱をコントロールしています。しかし、これは送電線の何万ボルト
と言う高圧電流のようなもので、そのまま使えば一般家庭の電気製品が壊れてしまうのと同じで、尺八の音のコントロールはできません。
最近尺八演奏家の中で、「声帯」を締めることでコントロールを使用という人もいますが、現象だけ見れば正しいかも知れませんが、結果として喉に力を入れすぎて音が悪くなる危険性もあります。
理屈を分かっている人は良いのですが、文字だけで理解する人は”喉に過度の力を入れる”危険性があるのです。
私の吹奏理論も文面では誤解の恐れもなきにしもあらずです。しかし、一昔前の「口を真一文字に横に引っ張って」という明らかに不合理な吹き方がまかり通っていることへの警鐘になることを考えますと、プラスマイナスでプラスになるのではと思います。
余談はこれくらいにしまして、このほんの少しの上唇裏の口腔前庭で甲音から乙音まで音を自由にコントロールしてください。
以上が『尺八吹奏法Ⅱ』からの引用です。
実はこれは私がお弟子さん達への指導に悩んでいた時、たまたま見た
『DVD技に生きる』の虚竹禅師像と幻の名人酒井竹保の映像がヒントになったのです。
この虚竹禅師像は明暗寺にありまして、例年の本曲大会にはこの像に向かって吹禅します。私も数年前に参加させていただきました。持っている竹
は三節の三節切ですから、すくなくとも江戸時代の前半に造られたものでしょう。京都の有名な7節のすばらしい「古鏡」という尺八制作者(工房?)は
1700年後半以降ですから、三節切尺八はそれ以前なのです。
さて、この映像からの写真を見ますと、まさに「口腔前庭理論」そのものです。上唇裏にくっきりと空気の塊の存在があるのが分かります。それはこの映像の中心になっている幻の名演奏家・酒井竹保の吹奏でも分かります。
どうかこの画像もしくはDVD映像
『技に生きる』を見て、今一度ご自分の吹奏を振り返ってみてください。
(fig5)
(歓談する玉水師と酒井竹保師)
(fig6)
また、演奏家ではありませんが製管師・初代河野玉水師の吹奏姿にも、この口腔前庭の存在と効果的利用が明瞭に現れています。81才のご高齢の現役でお仕事をされる姿を拝聴しますと、「尺八を続けるには口腔前庭を前提とした合理的な吹奏が必要だ」ということを実感します。