江戸時代、こんなところにまで虚無僧が・・・ 大峯奥駆け入り口、奈良県吉野の六田村 貴志清一
虚無僧研究会の年会誌「一音成仏(いっとんじょうぶつ)」は今年で49号を迎えました。ほぼ50年の歳月です。
貴重な論説や調査報告などが多く会員の私も参考にさせていただいています。
その中の1984年第8号p107に故岩井省法師の「古文書の研究(虚無僧資料関係)」があります。
これは嘉永2年(1849)に京都の明暗寺の出張所から奈良の吉野郡六田村に宛てた不法虚無僧取り締まりの古文書です。
年誌の中の翻刻ミス
➀宛先の「六甲村」は「六田(むだ)村」
②本文6行目「面髪等仰堂町御霊前相罷所え」は「南都薬師番町御霊前出張所え」(なんと、やくし、ばんちょう、ごりょうまえ、しゅっちょうしょ)が
正しい翻刻と押さえながらお読み下さい。
[読み下し(補足字入り)]
一(ひとつ)先年、印書(を)差し入れ置き候ところ、近来(ちかごろ)その村方へ虚無僧姿にて不法の者(が)入り込み、無心・合力・無料の止宿(を)申しかけ、
村方に於いて農業渡世(とせい)の妨げにあいなり、難渋の趣き、追ってあい聞こえ候につき、今般あらためて印書(を)差し入れ置き候あいだ、自今、村方へ
立ち入り不法がましき儀(を)申しかけ候はば、その所へ差し留め置き、南都薬師番町御霊出張所へ申し越さるべく候。早速、役僧(を)差し向かわせ宗門の
仕置き(を)申しつけ、村方、難渋(に)あい成らざる様、取りはからい申すべく候。
依って件の如し。
虚無僧本寺
京大仏 明暗寺
出張所
嘉永二年酉九月
和州吉野郡 六田村
庄屋衆中
年寄衆中
(大意)
前に不法の虚無僧が入り込まないように確認の文書を村役人宛に出したのだが、近頃また虚無僧姿の不法者がきて村に迷惑をかけていると聞いている。
それゆえ、改めて印書を差し入れるので、不法者の虚無僧が入ってきたらその場に留めて、南都(奈良)の薬師番町御霊前の出張所へ連絡しなさい。
さっそく役僧を派遣して宗門の刑罰を加え村方が困らないように取りはからう。
(補足)
ここでの出張所は奈良の薬師番町御霊の前にあった京都明暗寺の出張所です。
ここの出張所が吉野郡六田村に出した文書で、このことから吉野川の大峯奥駆けの起点である六田村に虚無僧が徘徊していたことがわかります。
だいたい幕末のころです。
六田村といえば京都からは随分遠いところです。
「大和名所図会」巻6に「六田の淀」と出てきます。
六田の淀は大峯75靡きで逆峰の一番目「柳の宿」があるところです。ここから花の吉野を通り奥千本の金峯神社を過ぎれば山道になります。
古文書から窺えるように虚無僧は頻繁に六田村まできていたのですから、もしかすると気の向いた江戸時代の虚無僧が奥千本あたりまできたかも知れません。
ここには嘗ての「女人結界」があり、義経一行に従ってきた白拍子の静御前は泣く泣く吉野の道をもどります。
この奥駆け道を辿っていくと大天井ヶ岳を越えやがて山上ヶ岳の大峯山寺に着きます。
そこから小篠の宿を通り上り詰めたピークが大普賢岳です。
大普賢から東へおりると有名な修行場の「笙の岩屋」があります。百人一首で有名な行尊僧正の歌、
「もろともに あわれと思え山桜 花より他に 知る人ぞなき」はこの笙の岩屋の修行中に詠んだものです。
尾根道に戻り大峯最大の「さつまころび」などの名前場ついている難所が行者還岳まで続きます。
道を一の田和で右にとり厳しい坂を登れば弥山です。
すぐそこに近畿最高峰の八経ヶ岳があります。
単発的に吉野奥千本から八経ヶ岳までの奥駆け道を歩いたことはあるのですが、それ以南は残念ながらまだ未踏です。
すべての条件が整えばそこから釈迦ヶ岳の奥駆け道も歩いてみたいのですが、今年で満67才。さあどうでしょうか。
虚無僧古文書から随分話がそれてしまいましたが、江戸時代は「金谷上人一代記」でもわかるとおり、大峯奥駆けは一人では絶対行けないところでした。
ですから「尺八一管携えて、ただ一人奥駆け道を辿る虚無僧」というのは(絵にはなるのですが)ありえない話です。