全体的に見て、それらはもしかすると偏狭な考え方と言えるかもしれません。尺八は三曲合奏も含めて、内外の音楽に向かって常に手をさしのべてきました。
“純粋”な行き方尺八の発展に枠をはめるだけかも知れません。
この純粋な考え方は、的を得ていないかも知れませんが、製管法上、二尺四寸で指が届かない故に孔を千鳥に開けるのは邪道で、どんな長管でもまっすぐに指孔をそろえなければならないというのもその内にはいります。私などは、指を2cmほど長くする手術がいります。
さて、私見ではありますが、尺八は開かれた楽器と考えています。単一な考え方は、とかく“閉ざされた”スタイル(広い意味での演奏法)に導きがちです。
実際にここ100数十年、割合きちんと歴史がたどれるジャズの世界で、しばしばこの“純粋”さの問題が見つかります。最近ではラグタイムやデキシーランドの音楽がそれです。
それらは単一の道をたどり、外部からの刺激を受け入れず、自らの純粋性を保ったために変化から守られた博物館の陳列物となり、完全さを極めた“ガラスケースの芸術”とでも呼ぶべきものになってしまいました。この閉ざされたスタイルを壊すつもりはありませんし、それはそれ自体の偉大さと美しさがあります。
しかし、ジャズ音楽の若い演奏家は、変化してやまない環境に様式(スタイル)の上で呼応し、積極的に開かれた音楽世界の一部になりたいと望んでいます。
この積極的な態度は演奏家の経済上の問題を解決することにもなり、同時にその時代のプロとして要求されることに自分を合わせることにもなります。
いつの時代においても、高い水準の芸術にとってこの“開かれた”考え方は必要でした。伝統をふまえ根本的なものを見失わずに、時代が要求しているものを取り入れることがいつも大切なことでした。
俳諧の世界で言う“不易流行”という言葉がこのことを見事に言い表しています。
決して他の流派をけなしているのではありませんが、“純粋さを保って”博物館でほこりをかぶりそうになっている本曲もあるのではないでしょうか。
私などよそから見ますと、そういう本曲は、何故に音楽的に洗練させ、他流派の良い技法を取り入れて高めていかなかったのかと不思議に思います。
ひるがえって考えますと、私の習った琴古流竹盟社系では山口五郎師が定番的な「琴古流古典本曲集」を録音しております。これは素晴らしい演奏ですが、ややもすると後に続く弟子がこの演奏を後生大事に真似をするだけに終わってしまう危惧があります。
他流派を聞き、世の中で行われている音楽に心を開いて、山口師の開いた音楽的水準を高めることが大事だと思います。
とにかく、音楽は“閉ざされると”陳腐なものになってしまうことを銘記すべきでしょう。
今、若い世代の尺八愛好者が極端に少ないのは、やはり今おこなわれている尺八音楽に魅力が少ないからだと思います。
かつて、山口五郎や、海童道祖等が示した尺八の魅力で尺八が世界に少なからず広まりました。それは伝統に依りながらも、新しい感性・技法で古典本曲を演奏したからです。
いま再び、現在を生きる尺八奏者が現代人にも訴える尺八演奏を模索していくときが来ていると思います。そう考えますと、とくに若手の尺八奏者に、大いに期待したいものです。