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葛城修験二十八宿 尺八巡り
No.1 第八経塚犬鳴山    貴志清一

 古典尺八の吹奏を中心にしている私のような奏者は古典本曲の持っている厳しい精神性に強く惹きつけられます。
 その精神性は室町・戦国・江戸時代を通じて尺八を吹きながら諸国を遍歴し、自己の悟りを求めた薦僧・虚無僧の厳しい日常からきているのだと思います。
 この虚無僧の廻国修行はその元を尋ねれば役行者(えんのぎょうじゃ)が始めた修験道に行き着くと思います。
修験道は山林を巡り深山の大自然の持っている霊力を滝行や断食などの修行をすることによって身につけるのです。
そして獲得した霊力を以て里や村に下り加持祈祷をして村人たちの日々の悩みに対処してきたのです。

 室町の1500年頃に文献に現れる虚無僧の元となった薦僧(こもそう)は廻国の遊行僧でした。
尺八修行をしながら乞われて尺八曲を吹き何がしかの喜捨を受けて諸国を巡っていました。
 娯楽の少ない日々せいいっぱい生きている庶民にとって尺八の音色は深く心に染み入るものだったでしょう。
修験道になぞらえて言えば、自然の音を師として尺八の音(ね)を練り、音楽の力を持って里人たちの心を癒やしてきたのでした。
 滝に打たれ滝そのものに生命(いのち)を観て尺八を吹けば「滝落の曲」になり、秋の深山峡谷で雌鹿・雄鹿の鳴き交わす声に「もののあわれ」を感じれば「鹿の遠音」になるでしょう。 
厳冬の雪原で群れをなしている鶴の一声を竹で模せば「鶴の巣籠」、そこに雛を育てる親鶴の愛情を見れば何か心に熱いものがこみ上げてきます。
元は鎧甲姿で馬上の勇者だったのに今は零落し諸国を彷徨う身。国に残した妻や子たちはどうしているのだろう。
涙で尺八の音もとぎれとぎれに寒風にさまよっていく。自分だけが不幸ではないのだ。
乞われるままに不慮の死を遂げた村人の弔いに般若心経を唱え尺八を吹けば「手向」という哀切きわまりない曲になります。
 尺八本曲は自然や人生と一体のものなのです。

 私の住む大阪府泉南市は雛流しで有名な淡島神社から東に伸びる和泉山脈にごく近いところです。
この山並みは北へ伸びて金剛山から大和葛城山を経て大和川で終わります。古来この山塊全体を葛城山(かつらぎさん)と呼んでいました。
 修験道で有名なのは奈良県の大峰山ですが、その大峰と並んでこの葛城山も重要な修行の場でした。
やがて山で「起き伏し」する山伏たちは西暦700年前後に活躍した役行者(えんのぎょうじゃ)を修験道の祖としました。
役行者は尊い法華経二十八品を葛城山に二十八カ所に埋めて経塚をつくったとし、その経塚を巡る修行形態をつくりあげました。
大峰の奥駆けでは行場(ぎょうば)が75カ所あり七十五靡(なびき)とよんでいるように葛城山にあっては「葛城二十八宿」と呼ばれています。

(経塚配置図)


 私は本物の修験者のように山林を駆け巡って滝行や荒行はとてもできませんが昔の行者たちに想いを馳せ、地無し尺八一管を携えて陽光溢れる樹林の道を小鳥のさえずりを耳に山の香りを味わいながら葛城二十八宿を尋ねてみようと思います。
 そして、そのささやかな一人の尺八愛好家の記録が何かのご参考になれば幸いです。
 このシリーズは順不同で経塚を巡りますが最終回には可能ならほとんどの経塚巡りが達成できていればと思います。
 経塚の中には今は民家の庭にあったり、江戸時代にはすでに遠くからの遙拝で済ませているところもあり28カ所の経塚をすべて巡れないということもご周知ください。
 また地無し尺八での本曲録音も1つ付けています。ただし、状況により必ずしも現地での録音とは限りませんのでご了承下さい。
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 第1回目は葛城修験の本拠地である第八経塚犬鳴山の記録です。

○修験道
 2023年度の犬鳴山七宝瀧寺山伏祭りは4月29日でした。ようやく大騒ぎしたコロナ禍も本来の「インフルエンザ並み」の認識が定着し今年も実施されました。
 葛城修験の中心がこの第八経塚のある犬鳴山です。

(写真1)


 ひんやりとした谷道を30分ほど行くと奥に本堂があり行者の瀧に着きます。
この瀧に鎖がかかっていましてそこが滝行(たきぎょう)の場所です。真冬でも凍るような水流に打たれ一心に般若心経を唱える修行です。
『平家物語』にある頼朝に平家打倒をすすめた文覚が那智の瀧でこれも真冬に修行する場面が思い出されます。最近は女性行者も多くここで行をするようです。

(写真2)


 修験者の本尊は古くは役行者が念じ出した蔵王権現、やがて不動明王になっていくのです。
この本尊はあくまで他力的な慈悲深い神仏ではなく、この姿を手がかりに我が心の中に不動明王のような厳しい強い意思を形成し、自然界に存在する霊力を獲得するのが修験道です。

(写真3)


 また柴燈護摩というのがあって、井桁に組んだ薪に柴(しば)を大きく炊いて一心に祈り心経を高らかに唱えるものです。
この大きな炎は不動明王の光背の炎でしょう。すなわちこの炎の中に不動明王を見るのです。目で見るのではなく心で観るのです。

(写真4)


 護摩を焚いた後の灰はお不動さんの霊力が籠もっていますので「護摩の灰」としてありがたく残しておきます。
昔の修験者はこれを村人たちに与えて病気の時など溶いて服用させました。
今でこそ「護摩の灰(ごまのはい)」は怪しげな物を配って人を騙す者となっていますが、元々は柴燈護摩で炊いたあとの灰のことです。
 さて役行者が法華経第八・五百弟子授記品の経筒を埋めた経塚ですが、この本堂の近くにはありません。
山林に交わること自体が修行ですので、ここから40分ほど直登した「経塚権現山」(海抜約550m)にあります。
 少々きつい登りでしたがこの経塚に着きました。経筒の上に石塔を置いて印としています。

(写真5)


頂上からは手前の歴史景観第1号となった大木の集落が見えます。
日本史の資料にもある「政基公引付」の九条政基がしばらく住んだ村です。
その向こうには関西空港が見えています

(写真6)


。山という自然の中からこれだけの人工物を見ると何故か現代社会は自然から逸脱しすぎな想いにかられます。
 さてまたまた急坂をころげるように下りていきますとまだ一連の山伏祭りが行われていました。
そこを抜けて帰路につく途中「犬鳴山」の名前の由来となった「義犬の墓」がありました。
 石の記念碑の手前に説明文があります。

(写真7)


読んで「なるほど」犬鳴山は宇多天皇が命名されたのか、と感心しました。
 また、犬といえども恩を受けた人間を命をかけて守ろうとした話は感動的です。

 (音源「手向」tamuke011)

 宇多天皇、菅原道真を信頼し政事を託した天皇。
しかし藤原時平によって道真は太宰府に左遷され憤死。後に天神となって暴れ回って恐れられた道真。
そんな時代に想いがいたりました。
 由来は写真の文を読んで下さいますようお願いします。
(写真8)