再読『日本人の脳』その2 貴志清一
---------------- その1からの続き --------------------
ここで日本語話者とそれ以外の欧米人などとの〈邦楽音、虫の声〉の左右脳での処理の違いを図で整理しますと次のようになります。
さて、ここで言語情報優先の原則について確認しましょう
(p93言語情報優先の原則)
「一般に)読む・聴く・書く話すなどの言語活動をしているときに純音・雑音・西洋器楽曲を同時に聴いても、
それらは左の言語脳に一緒にとりこまれて処理される。」
この原則により、西洋の歌、台詞を含んだオペラは欧米人も日本人も言語を扱う左脳で聴くのです。
すると、西洋のオペラが成立するなら、日本語によるオペラも成立可能になります。
これは当たり前のことで、既に高度な芸能として「能」という形になっています。観阿弥・世阿弥父子の功績でもあります。
ただ、言語を扱うので音声と感情が表裏一体のものでなければいけません。
日本語で「すごい!」と言えば正に「すごい、感動的だ!、すばらしい!」という気持ちが伝わるのですが、
ドイツ語で「ブンダバア」と聴いても「?」。後で辞書を見ると「Wunderbar」(英語のワンダフル)で、ああそうかと思うだけです。
「ぶんだばあ」と聞いてもよほどドイツ語に堪能でなければ即時的に「すばらしい」の意味が伝わってきません。
ましてや「すごい!」という気持ち、感情は一般の日本人には伝わらないでしょう。
単に「踏んだわ」と、何か猫でも踏んだのかなと思うのが精一杯です。
なぜかこの『日本人の脳』には民族音楽学者の小泉文夫が登場します。
そして日本語のオペラの不毛さを熱く語っているのですが、西洋人も日本人も言葉の入った音楽は左脳(言語脳)で処理しているのですから、
条件は一緒。どう考えても日本人の脳の特異性が原因で「日本語のオペラ」が不毛ということには結びつきません。
私見ではやはり上記に述べたとおり、言葉の問題が西洋風オペラの不毛の原因だと思います。
日本語での「お」とドイツ語での「オ」はまるで違い、ドイツ人は深い響きの「お」で、これを何も知らない日本の子どもが聴くと"おどけた"ように聞こえ爆笑を誘います。
しかもヨーロッパ言語には日本語にはない母音がいっぱいあるのですから普通の日本人にとって原語をそのまま鑑賞できるはずがありません。
逆に日本の声楽家がイタリア語の「オ~(ソ~レミ~ヨ)」で声を張り上げますと、もともと明るい澄んだ声量のある「オ」などは日本人に
なじみが無いのですから日本の子どもは"変な声で"「恐れ、見よ~」となって、これも爆笑の対象となります。
ほんとに言語の壁は厚いものです。
さて、日本人の虫の声や鳥の声、波の音まで「ことば」として聴く傾向はまさに「自然全体を生命として認識する」ことにも繋がります。
少なくとも邦楽器(尺八)にとっては演奏中の波の音や鳥の声は鑑賞の妨げにはならないでしょう。
みなさんはどう思いますか?
例として2023年6月に小さなコンサートで吹いた「瀬戸の花嫁」をお聴きください。(出だし、間違ってすみません)
ウエーブドラムといって波の音のする楽器を補助に入れてもらい、前奏では尺八で鳥の声を真似て吹いています。
「瀬戸の花嫁」の音源)
瀬戸の花嫁.MP3 へのリンク
この本の日本伝統楽器についての文章を見ましょう。
p106
「日本の伝統楽器の音は日本人にとってはすっかり言語音に近い性格をもってしまっていることが、脳の受容機構で見出された。
このことから日本音楽では歌と楽器と自然界にある鳥や虫の音とが対立することなく、美しく調和するということが説明できる。
こうしてみると日本には西洋音楽にみられる純粋な器楽曲といえるものは無かったことになり、脳の受容機構からはすべてが声楽曲であると極論することさえできそうである。」
尺八もちろん、やや西洋のピアノに近い琴の音色もやはり日本語話者は左の言語脳で聴いています。
素朴な実験ですが日本の尺八・琴で西洋和声(コード)を使った「夜明けのスキャット」を試しに演奏しました。
演奏した自分自身、西洋の和声を元にした曲でも違和感なく聴くことができる、と思いました。
(音源「夜明けのスキャット」)
夜明けのスキャット.MP3 へのリンク
これだけでは断定できないのですが、私の持論である、
「尺八の本質は音色である」がやはり間違っていないことを確信した次第です。しかもその音色は尺八本来の地無し管の音色がより好ましいのです。
最後に私の演奏会にて、古典本曲の名演奏家・石川利光氏に先導していただき連管で吹いた最も尺八らしい曲「鹿の遠音」を地無し管でお聴きください。(了)
(「鹿の遠音」の音源)
鹿の遠音.MP3 へのリンク