再読 『日本人の脳』 その1 貴志清一
1978年、奇しくも私が尺八を始めた年に『日本人の脳』という尺八・琴などの和楽器奏者にとって衝撃的な本が出版されました。
今から45年も前になります。
この本の主旨を一言で言えば、
「日本人とポリネシア人だけが虫の声、波の音、尺八・琴などの邦楽器音を言葉のように聴く」ということです。
そしてこの事実は後の脳科学によっても確かめられているのですが、それを一種の文化論にまで持っていったので広く世間に広まったのです。
『日本人の脳』(角田忠信著 大修館書店)の中ではこう述べられています。(以下、ページ番号は同書)
(はしがきⅣ)
「日本人の情動のメカニズムは日本語によって作られ、それが日本の文化の発達に非常な影響を及ぼしていることを中心にして話を進めているが、
これだけで他の文化との相違を完全に説明しつくせるものではない。
例えば、日本人とポリネシア人とは脳の働きの型は一致しているが、現在もっている文化はそれぞれのおかれた環境に影響されることが大きい。
逆に、違った脳の働きを持つ日本と中国。朝鮮についても文化の共通部分が大きいことにも気付かれる。」
著者も書いているように、日本語によって形成される脳がその文化を決定するという単純なものではないことはきちんとおさえています。
さて、この日本人の脳の特異性に気がついたいきさつは次の通りです。
p10「たまたま私は母音を長く伸ばして、たとえばアーとテープに録音しておき、それを切って検査のときに使ってみたところ、
当時は成因は不明でしたが、何故か母音を使うと、ことばとして左の脳で処理されており、純音を使った場合には右脳が優位となる。
ちょうど正中線を境に、左右にはっきりわかれるわけです。
母音ですと左で、機械音とかバイオリンの音などは右。バイオリンで長く鳴らすAの音と、アーという音とは、音色は非常によく似ているのですが、
どういうわけかことばのアを使うと左脳、バイオリンの場合は反対側、ということがはっきりわかった」
この「母音は左脳で聴き、機械音やバイオリンの音は右脳で聴く」というのは、実は世界中の人が同じように聴いているのではないということを角田氏は発見したのです。
p12「日本人と西洋人との違い
これは私がはじめて発見したのですが、ことばと音楽という二種類の情報が同時に入りますと、これは両方とも左にいってしまいます。
要するにことばが入りますと、左側で言語活動がはじまり、右側の働きをおさえてしまうわけで、これは日本人も西洋人にも共通の現象です。(オペラなど)
音楽、つまり(西洋)楽器音は本来右脳で聴くものなので、それにことばの要素が入ってはいけないんですよ。」
p15「おもしろいのは虫の声で、これは私が自分の経験で、深夜窓を開けて机に向かっていると、何となく虫の声が耳について集中の妨げになるんですよ。
そこでこの音を分析してみたところ驚いたことに母音に近い……論理的にはいろいろ複雑なのですが、要するに左半球で処理される音なんですね。
ところが、これは日本人特有の反応なんで、西洋人に検査してみると、全く言語的要素はない……。アメリカ人などでは、虫の声などという感覚は全くないですからね。
たまたま聞けば、美的感覚できれいな音だな、と受けとる人もなくはないが、雑音としか感じない人が多いようです。」
虫の声が日本人には「声」として聴いているというのは自分自身の経験から確かにそう言えます。
その日本と日本以外の国との聴き方の違いはどこから来るかというと、それは「日本語の母音1音でも意味がある」ことによると述べています。
p18
「その母音の一っ一つが意味を持っていることばが日本語なので、日本人の脳だけが、母音に対して特殊な反応形式を示すと考えられます。
いろいろ実験してみますと、日本人にとって動物の声のようなものはみんな左側(言語脳)にいってしまうんです。
けれども西洋楽器の音のように整然としたものは右側へいきます。これはどうも脳幹にあるスイッチのような機能の作用らしくて、
日本人以外では、そのスイッチの作用の仕方が違う。
○ここから自然界のいろいろな音についての話がはじまります。
p61
「以上のことから母音の優位性パターンは、十歳以下の母国語によって定まり、文字学習によって強化されると、この型は一生を通じて維持される。
コオロギの声は日本語話者と非日本語話者では違う脳で聴いている
p72 偶然の発想から生れた虫の音の実験試料を日本人に応用してみると、これが母音と同じ側の言語脳が優位になってびっくりした。
同じ虫の音を西欧人に応用してみると驚いたことに今度は判っきりと劣位脳優位になってしまうことがわかった。
こうして虫の音の優位性が日本人と西欧人とで違うことが見つかった途端に、私はいままで日本人論でいわれてきた様々な特徴の原点がここにあるなと直観的に捉えられたような気がした。
日本人が秋の虫の音に季節感や安らぎ、またもののあわれを感じるということは日本人に特徴的な音の処理機構に根ざすのではなかろうか?
大変日本人的な発想法だといえようが、これにヒントを得て更に多くの自然音を検査音に加えることによって、日本語の母音の大脳の識別機構の特異性が日本人の形成に影響しているこ違いないという考えをもつに至った。」
さて、角田氏が後日実験しているように、日本人にとって邦楽器の音色もやはりコオロギと同じく左脳(言語脳)で処理しているのです。
ですから推測なのですが、次のことが言えると思います。
すなわち、邦楽器の代表のような尺八の音は日本語を話す人間にとっては「言葉のごとく」自然を思い出させ、安らぎ、もののあわれを感じる音色なのです。
ただしこれは、決して非日本語話者の尺八奏者が演奏する「古典本曲」の価値が劣るというものではありません。
例えばアメリカ人の尺八奏者が古典曲「手向」を心から気に入り、全身全霊を込めて吹奏、吹禅する演奏はやはり素晴らしいものがあります。
ただそこに、日本語話者とそれ以外の奏者や聴衆では感じ方の違いがやはり存在するということは心に留めておかなければならないと思います。
ここで一つの例として松山千春の「季節の中で」という曲を西洋楽器であるフルート(専門的に修練した女性奏者)、そして私の吹く尺八で聞き比べてみて下さい。
(音源 フルート「季節の中で」)
487-01フルート季節の中で.MP3 へのリンク
(音源 尺八「季節の中で」)
487-02尺八季節の中で.MP3 へのリンク
どんな感じを受けたでしょうか。尺八と言っても一尺六寸のフルートに近い感じの短管で吹いているのですが、演奏者としての私の感じは次の通りです。
・フルートはなにか「よそよそしい」感じがする
・尺八は「心のこもった」感じがする
・尺八の音は何か「人の声」に近い感じがする
○お聴きになったみなさんはいかがでしょうか。
これはどちらの方の楽器が優れているかと言う問題ではありません。
フルートは西洋音楽を演奏するのに最もふさわしいものです。
尺八は日本の音楽、とりわけ音味(ねあじ)を楽しむ古典本曲演奏にもっとも適したものです。
いわゆる適材適所ということでしょう。
さて、これがより尺八らしい一尺八寸管になりますとより人声に近くなるようです。
今年の小さな小さなコンサートで吹いた一尺八寸地無し管での「川の流れのように」をお聴きください。
本来なら伴奏者がいるのですが地域の福祉委員会のコンサートで謝礼がでませんのでギターもしくはお琴の伴奏は頼めませんでした。
それで自分の作った伴奏CD(第1集-5)を使って演奏しました。普通のラジカセでボリュームを上げての演奏です。
ただこのような場所での演奏を想定して作ったCDですので、観客の皆さんには十分満足していただけたと思います。
さて演奏がはじまると聴いている人が思わず尺八の声につられて口ずさんでくれました。
「尺八の音色は人の声に近いし、また直接人の心に訴えるものがあるんだ」と肌で感じた瞬間でした。
(音源 「川の流れのように」
487-05川の流れのように.MP3 へのリンク
---------------- その2へ続く --------------------