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                  推定現存最古の一節切

                  (伝)後醍醐天皇下賜品           貴志清一


 琴古流尺八を吹いていますと自然に尺八の歴史に興味がいきます。

 初代黒沢琴古が1710年に生まれてから今年2021年まで300年ほどの隔たりがあります。
戦国/安土桃山時代の洛中洛外図には三節切(みよぎり)型の尺八を諸国行脚の薦僧が尺八を吹く図も見られます。
『竹を吹く人々』(泉武夫)『古典尺八及び三曲に関する小論集』(塚本虚堂)

 薦僧の三節切と平行して、一節切の尺八も図像でも現物でも戦国期にはたくさんの資料が残っています。

 有名な戦国武将が一節切(当時は単に尺八と呼ばれた)尺八を吹いた例で現物も存在するのが織田信長の「のかぜ」や朝倉義景の「鳳墜」です。
そして応仁の乱を生き抜いた連歌師の宋長は一節切で有名ですし、彼が師事した風狂の僧・一休も尺八を愛し京田辺の酬恩庵にはその愛管が残されています。

 さらに室町から南北朝時代に目を向けましょう。
『吉野拾遺』の中に後醍醐天皇の皇子・征西将軍・懐良親王が一節切尺八の名手であり、親王が吉野山にいたころ
尺八を吹くとその妙音に感応して川の魚が淵から躍り上がったと記されています。

 それでは父君である後醍醐天皇は尺八を吹いたのでしょうか。
文献にはでてこないのですが南朝が皇居とした場所の一つに賀名生(あのう)という地があり、そこに代々後醍醐天皇の下賜品として一節切尺八が伝えられてきました。
 賀名生は現在 奈良県五條市に属します。五條と和歌山県南部の新宮を鉄道で結ぶ計画のあった五新線という国道沿いにあります。
もちろん賀名生は北朝の室町幕府軍が容易に攻めてこれないように五条の中心地からかなり山中に入ったところです。

 〈写真1〉




 賀名生については有名な歴史学者の滝川政次郎が『日本歴史解禁』の附餘第一編第六「賀名生の皇居」という文章で詳しく説明しています。
「賀名生は南朝血涙の地である。賀名生の御所に至っては藁葺きの一民家であって あはれといふより浅ましいという感じである。」(滝川)

 〈写真2,3〉







 吉野朝三代天皇の皇居跡を代々伝えてきたのが堀家で、後醍醐天皇の下賜品として大切にされてきた家宝のひとつが一節切尺八です。

 〈写真4〉 




(滝川)
「推 朱塗龍模様の笛。この笛は後醍醐天皇が親しく玉唇を触れさせ給うた供御の御笛であって、天皇がこの行宮に留めおかれた置土産の最大なるものである。
 この笛は尺八に似た竹の笛で菊花模様の錦の袋に納められている。長さ一尺余、前 四孔 後 一孔の笛で歌口から三寸五分のところに竹節が一つある。
これによって、この笛をひとよぎり(一節切)と呼ばれる笛であることが知れる。
 この行宮にこの笛が残されているところを見ると、懐良親王の父君・後醍醐天皇もまた一節切(尺八)を好んで吹かれ、相当の御名手であらせられたのではないかと思う。」

 〈写真5〉




「更に想像を逞しくすれば、上の好み給うところ下これに倣うで、吉野朝の廷臣たちの間には、この笛が流行し、
それがやがて楠木等の南朝の武臣たちの間にも広がったのではないかと思う。
 江戸時代の初期に一節切に合わせて謡われたという小歌の中に吉野山、伊勢おどり、海道くだり等があるが、なかんづく「吉野山」は一節切の本歌として尊重された。」(滝川)
 
 1664年刊『糸竹初心集』所載の小歌の筆頭は「吉野山」という曲です。
 ♪吉野の山を 雪かと見れば 雪ではあらでん やあこれの 花の吹雪よのん やあこれの♪
 この曲の"吉野"の連想で南北朝時代の吉野朝を想起するのも史実にかかわらず興味深いものです。
 私どもの関西一節切研究会では古管に迫る復元一節切制作も目指してきました。
 一節切の音色を追求しますとやはり黒竹よりは真竹で、できれば年数の経った煤竹が最高のようです。
 最近仕上がりました煤竹復元一節切の音色で「吉野山」をお聴きください。
 頒布に関してはこちらをご覧ください。
 
〈写真6〉


(音源 「吉野山」)
https://comuso.sakuraweb.com/music/445.MP3

 さて吉野の廷臣の一人で有名な『神皇正統記』を書いた北畠親房はここで没しその墓は賀名生皇居のすぐ裏の小高い丘の上にあります。
 〈写真7〉




 また皇居の前には五條市の’賀名生の里歴史民俗資料館がありここで実際の後醍醐天皇下賜品や貴重な資料などが見学できます。
 〈写真8〉




 ご覧いただいている写真は2021年10月18日のものですが、実は私の住む大阪から奈良の賀名生の里へ見学に行ったのではありません。
この日、40年来の友人であるD君と紀伊半島の中心・標高1799.9mの釈迦ヶ岳に登ったのですがご覧の通りのガスで全く視界はゼロ。
頂上から3時間かけて馬の背・縁の鼻などの難所を往復する計画だったのですが雨になり、足元がすべりますので安全策をとり撤退しました。
 〈写真9〉




 必然的に時間が余りましたので来る途中に見かけた賀名生の里に寄り道したという訳です。
 この日は数日前から足を痛めていまして岩場用のハイキングシューズではなく滑りやすい普通の運動靴で行ったので、もしかするとお釈迦様か山の神様が、
「釈迦から孔雀岳までは難所だから、その靴では危ない。行ってはいけない!
 尺八や一節切を研究してるのだから、一度は賀名生の里に行きなさい。」
と教えてくれたのかも知れません。