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竹~あらゆる木の神の一宮・伊太祁曽神社を訪ねて
                                                                    貴志清一
 竹,とりわけ真竹はよく見られるものです。中が中空になっていて一番身近にある竹が尺八の材料となっているのも極めて自然なことです。
 この竹や樹木一般を司る神は五十猛命(いそたけるのみこと)で、その大元である一の宮が和歌山市にある伊太祁曽(いだきそ)神社です。
 私の住んでいる大阪からは日帰りで行ける距離なのですが、未だに一度も行ったことがありませんでした。
 竹を吹く者の一人としてこの神社にお参りするのも自然なことだと思い、先日訪れました。
 本物の猫が駅長をやっていることで鉄道マニアにはよく知られている和歌山電鉄、昔の貴志川線の伊太祁曽神社で下車。
 大きな木の柱でできた大鳥居をくぐり朱塗りの丸い橋を渡ると本殿があります。
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 観光地ではないので参詣人もほとんどなく、神さびた古代から続く森に心が洗われるような心地です。
 白い水干に鮮やかな朱の袴姿の巫女さんが本殿前を楚々と歩く姿は一幅の名画を見るようでした。
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手前の建物に「天皇陛下本殿遷座祭 幣帛料 平成二十二年十月三日」というお宮さんを象ったものがありました。
さすがに五十猛命の一の宮だと感心しました。
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 幣帛といえば今から800年程前に後鳥羽上皇の熊野御幸に奉幣使として供奉した藤原定家が行く先々に御幣を納めて回った記録を思い出しました。
 定家の「熊野御幸記」を読みますと、上級貴族でない悲しさで時には宿泊にも困ったことが書かれています。
 ここ伊太祁曽神社のすぐ側を熊野古道が通っています。
 伊太祁曽は古い由緒ある神社ですので定家も奉幣使として御幣を納めたはずだと思っていたのですが記録によると、どうもここは寄っていないようです。
 大阪から和歌山県に入り紀ノ川を渡って熊野街道は矢田峠へ向かうのですが定家はすぐに西に向かって日前宮に行き、そこで御幣を納めます。
 伊太祁曽神社は紀伊国の一の宮とは言いながら力では日前宮(にちぜんぐう)に負けていたようです。
 実は定家から500年ほど前の和銅年間に伊太祁曽神社は現在日前宮がある秋月界隈から伊太祁曽へ強制的に移転させられたようです。
 その跡に国懸(くにかけす)の神を祀る日前宮が居座ったということです。
 実は私はこの日前神社(ひのくまじんじゃ)の経営する「日前幼稚園」に60年程前に通っていました。
 家から歩いてたった5分ぐらいのところに日前宮がありました。
 中世には日前神社に対抗するために伊太祁曽神社は紀州根来寺と提携ししばしば争いを起こしていたようです。
  日前宮は天照大神を別の名前「日前」(日のくま=日の光)にしてお祭りしている紀ノ國一の宮なのですが、伊太祁曽神社も紀ノ國一の宮です。古さから言えば伊太祁曽神社のほうが古いのですが、どうなのでしょう。
 そう言えば古事記・日本書紀には神様どうしが争った記事も多いし、神功皇后の夫である仲哀天皇などは神の怒りで死んでしまうといういささかショッキングな話さえあります。
 仲哀天皇・神功皇后が兵を率いて九州の熊襲(くまそ)を勢力下に入れようと遠征していたとき、天皇が琴を弾いて神おろしをしました。
 琴は音の力で神様を呼び寄せましたから神功皇后が神がかり状態になりました。
 神様は皇后の口を借りて託宣を述べます。海の向こうにある国まで遠征しなさい、という内容です。
 仲哀天皇は海の西の方を見ましたが何もありません。
 いいかげんなことを言う神だと思って異界との交信に欠かせない琴を弾くのを止めました。
 ここで神託を述べた神様は激怒し「おまえは一道(ひとみち=死の国)に向かえ」と言います。
 臣下の建内宿禰大臣は恐れて仲哀天皇に琴を弾き続けるように訴え、天皇はしぶしぶ琴を弾きますがまもなく音が止みます。
 (おそらく、琴の糸が切れてしまったのかも知れません)
 不思議に思って火をともしみますと既に天皇は事切れていました。
 ことの糸が切れる→ことが切れる→事切れる=(死ぬ)
 このあと神功皇后の事績と応神天皇を生む話がつづきますが、古代において如何に「琴」の音というのが力を持っていたのかがよく分かる話です。
 琴は神様の道具でもありましたので、今でも琴奏者は怖くて琴を跨いだりは決してしません。もしそんなことをすれば神罰は必定ですから。
 
 
 さてそういう古代の伝説に想いを巡らしながら竹の神・木の神の五十猛命を拝んだ後で社務所にて記念のお守りを求めました。
 いくつになっても尺八は上手くなりたいので芸能守護のお守りを探したのですが残念ながらありませんでしたので「木の神お守」にしました。
 この神社の敷地に古墳がありましたので見学しました。
 おそらくこの地域の古代の豪族の墓だと思われます。
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 神社を出て左に5分も行きますと熊野古道に合流します。
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 六地蔵を見てしばらく南に歩きますとお地蔵さんがあります。
 ここで定家が奉幣使として日前宮の帰りに通った道と出会います。
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 私も定家の歩いた道を800年後に歩いてみるということで右に折れますとまもなく池がありました。
 そこでダイサギとカルガモを見れたのでバードウォッチャー初心者としてはうれしかったです。
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 池には2匹スッポンも泳いでいました。わかやま電鉄(貴志川線)の吉礼(きれ)駅の手前に和田川にかかる橋がありました。
 下を見ると小さな魚が小さな群れで泳ぎ、亀や鯉もいます。たいして上流ではないところですがこんなに自然が残っていることに小さな感動をおぼえました。
 駅に着き下り電車を見送ると車体の行き先表示部に私の名前と同じ「貴志(きし)」とあります。
 この貴志川線の終着駅が貴志駅だからです。語源は私の俗解ですが、
 木の国の氏で「木氏(きし)」そして雅字に改めたときに「貴志」の字を宛てたのではと密かに考えています。
 10月とはいえ温暖化の影響で暑かったですが秋空の下、竹の神様にお参りできた良い一日でした。
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