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60才以上の尺八奏者の「スタミナ・耐久力」について
                   貴志清一
 60歳以上の尺八奏者にとって、「スタミナ・耐久力の劣化」は多くのひとの頭を悩ませる厄介な問題です。スタミナ切れを起こすと、尺八の場合は「鳴らしたい音が鳴らなくなる」ということが起きますので、経験したときのショックが大きい問題です。
 このショックの大きさ故に、自己否定と結びつきがちな問題でもあります。
 
【スタミナを付けるという名目で行われる自分いじめ】
演奏をしていて、唇やその周りが疲れてきて音が鳴らなくなったり、痛くなったりしてくる「スタミナ切れ」。
その現象をわたしたちは
○「体力が無い」
○「筋肉が弱い」
○「練習が足りない」
というふうに、何かの欠如として捉えがちです。
 しかし、「疲れて音が鳴らなくなってくる」という問題は、必ずしも何かの欠如が原因ではありません。
その証拠に、多くのひとが
 
○疲れて音が鳴らなくなるという体験をする
○筋肉・体力・気力・練習量のいずれかの欠如だと思う
○そんな「弱い自分」「ダメな自分」を厳しく叱責し、根性を叩き直すために鍛えるような態度で自分自身に接し始め
○疲れを我慢してもっと吹けば吹くほど強くなるはずと思って無理して練習を重ね
○挙げ句、唇を腫らしたり傷付けたりして
○翌日以降まで心身の疲れが溜まり
○スタミナはむしろ下落し
○集中力・やる気・楽しさ・技術的な繊細さや正確さも悪影響を受けて
○そんなダメな自分をもっと鍛えようとする or 疲れて練習を諦める
 (挙げ句の果てに「尺八を止める」)
 
という悪循環を辿っています。
 
 このように、スタミナ問題は尺八奏者にとって最も自己否定や根性論に結ぶ付きやすい領域のひとつです。
 スーポーツ根性精神(スポ根精神)にわたしたちはまだまだ魅力を感じてしまいがちですね。
練習すればするほど、苦しい思いを我慢すればするほど、いつか必ず「すごくうまくなる」というストーリー(話の展開)があるわけです。
 しかしこのストーリーは、うまくいかなくなると、「せめて自分を犠牲にして頑張ったからエラい」という別のストーリーにすり替わり、どんな問題でも全て「努力不足」という診断と「もっと努力する」という処方箋を出すというところにいつも戻ってしまいます。
 その結果、「もっと思い通りに演奏したい」という人間的で芸術的な欲求は満たされないまま問題が放置され、プロアマ問わずより素敵な音楽を奏でられるかもしれない潜在能力の開花を阻んでしまいがちです。
 まずは、反射的な自分イジメを保留して、ゆっくり問題全体を一緒に再考していきましょう。
 
【もっと頑張る方式の落とし穴】
 もっと頑張って練習量を増やすことでスタミナを付けようとする考え方にはいくつか落とし穴があります。
① 余計に頑張って、余計に疲れる
スタミナが切れるのは筋肉が弱いからだ。
それならば筋肉を強くしなければならない。
筋肉を強くするためには、疲れを押してもっと頑張って吹くことをやらなければならない。
 
そういう考え方の展開でスタミナ問題に取り組むと、自分の中のどこかで「頑張れている=後でスタミナが付く」証拠が欲しいというような気持ちになってきます。
頑張る事が、スタミナを付けるはずだから、頑張れば頑張るほどスタミナもまた増大する。だから、「頑張れている感覚」をどんどん得たくなります。
 ではこの「頑張れている感覚」を何で計るかというと、疲れ具合や労力感です。
 そうすると、実は求めているものが「思い通りに演奏を続けられる」という意味でのスタミナではなく、頑張れている感覚そのものを得ようと、いつの間にか目的が混乱してしまうのです。
 しかも、「頑張れている感覚=疲れ/労力」ですから、身体では何をしだすかというと、筋肉を、そのときの演奏に必要とされている以上に使い始めます。特に尺八の場合は口をヒン曲げて吹く。そうすれば、より速やかに疲労を生み出すことができ、労力感を提供できるのです。
 その結果どうなると思いますか?
 
 スタミナが落ちるのです!
 なぜなら、必要以上に頑張って疲労を蓄積することを身体に要求してしまっているのですから…..
 
② 現在の限界の効率的な伸張を阻む
スタミナとは、望んでいるような演奏を、望んでいる時間分継続できる能力であると定義するのが良いでしょう。
 とすると、スタミナとは必ずしも筋肉や体力の量または強さだけを指しているわけではありません。結果的にあまり疲労しない吹き方もまた、スタミナの向上の重要な側面です。
 甲の音でも大き目の音でも、「それを演奏するための技術」の精度が上がると、よりラクに演奏できるようになっていきます。それは、高い技術=やろうとしていることに対してちょうど必要な量・場所・種類・タイミング・時間の労力を使えることを意味しているからです。
 しかしどんな高い技術でも、「比較的まだそれほど精度が高くない時期」が存在します。技術は練習を通して磨かれていくからです。どんなひとでも成長します。それはつまりどんなひとでも比較的未熟な時期や分野を持っていることとイコールです。
 技術は、「まだ高まっていないところ=現時点での自分の限界や未熟なところ」にフォーカスして練習することで効率的に高まります。
 それは
・音域
・音量
・スピード
・継続時間
・複雑な譜読み
・音楽性
 
など演奏の諸側面にわたります。
 たとえば大甲の技術を伸ばすべく取り組むとすれば、それはその時点で自分が出せる高い音の限界付近を、「竹籟五章」のような現代曲のフレーズを題材として用いて音楽的に演奏しようとする行為のことです。
 
「現時点での限界付近」は、当然ですが技術が未熟です。したがって、必要以上の労力がかかっていたり、必要な労力をうまく使えないでいたりします。ですので、疲れやすい領域です。
 
しかし、数日〜数週間のスパンで見ると、その限界エリアがいつの間にか以前より簡単になってきます。技術が高まって、必要とされているのによりマッチした量や種類の労力を使えるようるになったからです。
 
 そうすると、以前はすぐバテてしまったようなフレーズが、以前より長時間演奏できるようになっていたり、ラクに演奏できるようになっていたりします。望んでいるような演奏を、望んでいる時間分継続できる能力という意味でのスタミナが増したのです。
 すなわち、演奏上のスタミナをつけるには、必ず適度な時間内で集中して練習し、疲れてくる前に止めることなのです。
 
 スタミナを付ける=もっと頑張るという方式、すなわち自分を弱い、練習や努力が足りないと断罪するような自己否定方式は、このような技術の向上を犠牲にしているのです。
 
③ テクニックの有機的な変化や上達を計算に入れていない
 
 上述した、「数日〜数週間というスパンで起きる技術の向上」は、あまり「自分でやった」ような感じがするものではありません。
 
・あれ、なんだか以前鳴らなかった音が鳴るぞ!?
・おっ、なぜかずいぶんラクにこの音が思いっきり鳴らせるなあ??
・こないだまでは追い付かなかった指は、いつの間にかできちゃえるようになってる….
 
上達の多くが、そうして起きます。
上達には、筋肉が強くなったとか大きくなったとかいったことより、脳の中でその演奏に必要な回路が形成されて使えるようになってきたが故に起きているものがたくさんあります。
 そういった脳の変化や成長は、練習をやる時間帯ややり方の工夫により大きく影響を与えられるのは確かですが、それでも「自分で直接的にやる」ものではなく、脳(を含む身体)が「やってくれる」ようなものです。
 ちょうど、身長が伸びたり体型が変わったりするのも、いつの間にか「身体がやってくれている」ものであるのと似ています。
 
スタミナの問題も、技術のレベルや質によって大きく左右される以上、スタミナ問題をすべて「もっと頑張る」ことで「自分の力で直接的に」解決しようとするアプローチは、上述した「身体が数日〜数週間スパンで起こしてくれている変化」を無視してしまっています。
  無視してしまうと、そういった変化をより効果的に促すような考え方や生活リズム、練習の工夫をなかなかできません。
 
 もっと頑張る、というやり方はこうやって突き詰めると、身体の有機的な変化をむしろ阻害しがちなように思えます。
 ここにもまた、自己否定的な根性論がバックボーンになっている「もっと頑張る・もっと努力する」というやり方の落とし穴があるのです。
 
 いずれにしましても、私(64歳)も含めて、高齢尺八奏者は吹奏上の衰えを受け入れ、根性論ではなく、自分のできる範囲で効果的に練習していきましょう。そしてその結果として「スタミナ・耐久力」を維持、向上させましょう。
 
 最後に一言。
 根性論ではなく、効果的に練習していく上で「良い竹で吹く」ということは絶対条件です。だれが吹いても口をひん曲げなければならない"どうしようもない尺八"では効果的な練習は不可能です。そういう尺八では「根性論」に頼らざるを得ないということも事実です。尺八技倆の向上を目指す奏者は粗悪管だけは吹かないようにしましょう。