永平寺で只管打吹(しかんたすい)
(音源:地無し一尺八寸管の「三谷」)
貴志清一
2016年8月26日、曹洞宗大本山永平寺を訪れました。大阪の南部からですと電車で4時間弱かかりました。
(画像「永平寺門額」)
永平寺の開基は鎌倉時代の道元禅師。京都という誘惑の多い地を避け福井県という北陸の山間部に寺を作り座禅修行の場としました。
JR福井駅から直通バスで30分、樹齢何百年という杉木立に囲まれて今も厳しい修行の伝統が続いているといわれています。
道元の教えは只管打座(しかんたざ)と言います。
「悟りを求めたり想念をはたらかすことなく、ひたすら座禅すること」というまことに厳しい思想です。ひとつ間違うと仏道そのものまで否定しかねません。そのぎりぎりのところで深い悟りに至るのだと思います。わたくしのような凡人の及びもつかない高い精神のありようだと思います。
禅を標榜し尺八を只ひたすら(管)吹奏することによって同じような悟りの境地を開いてきた江戸時代の虚無僧たち。かれらが練り上げてきたのが古典尺八本曲です。
古典尺八本曲を学ぶ者の吹禅修行として、喧噪の地を避けた道元禅師にあやかり永平寺の右奥の方でしばし「三谷」を吹きました。
雑念は消えることなく浮かんでくるのですが、蝉しぐれに包まれそばに大輪の白い蓮が見事に咲いている環境に身をおくとほんの少し「ただひたすら吹く」気持ちになれました。ただ邪念・雑念・妄想が最後まで襲ってきたのは、ひとつにはこのHP上に公開するために録音機をONにしていたのが原因です。吹奏後「録音しながら吹奏」するのは聴いてもらう人を意識してのことですから邪念そのものだと悟りました。ほんとうに救いようのない凡夫で道元が生きていたら「喝!」なのでしょう。
しかし音や音楽の根源をたどれば、やはり音楽は何かを「伝える」という絶対的な真実があります。極端な話ですが、東南アジアのテナガザルは歌を歌います。「テナガザルの歌」は動物園でも聴けるそうです。それは自分の縄張りを他のものに主張するためのものです。
鳥は交信のために鳴きます。ウグイスの鳴き声はすでに「歌」といっても良いくらいです。
人が尺八を吹く、楽器を鳴らすことの根源を考えれば「何かを他者に伝えたい」ということは全く自然で基本的なことです。そう考えればあながち巧拙は別にして拙い演奏をHP上で聴いていただくのも悪いことではないと思います。
そういう色んなことを考えさせてくれたのは、もしかすると永平寺の道元禅師の導きかもしれません。
よろしければ蝉しぐれの中での地無し一尺八寸管の「三谷」をお聴き下さい。
(音声ファイル「三谷」 地無し一尺八寸管)
https://comuso.sakuraweb.com/music/349-sanya.mp3
(画像「蓮」)