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一月寺の遺石を訪ねて
貴志清一
尺八吹奏研究会が発足したのが1995年。その当初からずっと会員でいらっしゃるO氏。氏から送っていただいた多くの資料によってどれだけ啓発されたか計り知れません。
10年ほど前に一度お会いしたのですが、それ以来お会いしていませんでした。
一度お会いして御礼を直接申し上げたいと思っておりましたが、今回思い立って東京へ行くことにしました。当初はO氏宅を訪問することのほか、関東方面の会員さん方にもお会いしてご希望があれば個人指導等させていただく計画だったのですが最終的に大阪からの日帰り
になりました。O氏宅への訪問だけにして、あとは念願の一月寺の遺石を見学することにしました。
一月寺は琴古流を学ぶ者にとっては大変興味ある虚無僧寺です。一月寺は鈴法寺と並んで全国の虚無僧寺の触頭(本寺)でした。1710年生まれの初代黒沢琴古はこの一月寺の虚無僧から多くの本曲を習得し、後には浅草の一月寺番所(出張所)で尺八の指南役をしました。
江戸時代の『琴古手帳』によりますと琴古が一月寺の虚無僧達から伝授された曲は、「滝落」「九州鈴慕」「夕暮」「鈴慕流」「下野虚霊」「吟龍虚空」となっています。
今回の記事は「滝落の曲」をお聴きいただきながらお読み下さい。
なおこの音源は雨の日に軒下にて録音しました。天蓋は被っているとはいえ雨に濡れながら托鉢をして一日中歩き、その生活が一生続くという虚無僧達の気持ちはどういうものだったのでしょうか。
さて、大阪とは言っても和歌山に近い自宅から始発の電車に乗り新幹線を使ってO氏宅へ11時前に到着しました。さっそく尺八談義が始まりました。私の知らない資料やお話を伺い、またご所持の竹などを吹かせていただき大いに勉強になりました。
おもてなしのお礼を述べてO氏宅を後にしたのは2時を回っていました。乗り換えもあってJR馬橋駅に到着。一月寺の菩提寺である萬満寺へと急ぎました。普化宗本山の一月寺といえども檀家もなければお葬式もしない虚無僧寺ですから、住職等のお墓は菩提寺という形で
そこに葬ってもらうのです。
(picture 1 )萬満寺
萬満寺から一月寺のある小金はそう遠くありません。お寺につきまして一月寺関係のお墓を探したのですが見当たりません。長い時間さがしたので
すがダメでしたので諦めて帰ろうと山門まできますと墓地の分譲の事務所がありました。一度きいてみようと思い訪ねてみますと丁寧に案内してくれました。実
は山門横の墓地ではなく、お寺に入り本堂の裏に一月寺のお墓があるのです。一月寺遺石として松戸市の指定文化財になっています。
( picture 2 )一月寺の説明版
一月寺遺石は開山塔と遺墨墳です。松戸市教育委員会の案内板にもあるとおり、一月寺の沿革のようなものが書かれています。その開山は1257年
の鎌倉時代となっていまして、この塔が建てられたのが1731年ですからその間、400余年で実際の塔の文字を見ても「傳燈四百余年」と記されています。
( picture 3 )開山塔の上部
開山塔とならぶもう一つの遺石が「遺墨墳」です。
虚無僧史上有名な天保の改革にも関係のある「仙石騒動」の中心的な人物、神谷転(かみや うたた)虚無僧名=友鵞(ゆうが)が建てた碑です。
仙石騒動における虚無僧側の尽力者である愛璿(あいせん)和尚を顕彰するためのものです。この遺墨墳は1842年に建立されていまして愛璿が没したのは前
年の1841年です。友鵞にとって命の恩人である愛璿の書いた「墨書」を埋め手向としたものです。
( picture 4 )遺墨墳(友鵞)
10年ほど前に鈴法寺で愛璿のお墓を見学したときも印象深かったのですが、今回も古人の心に触れることができ感無量といった感じでした。趣味
で古文書を勉強していますので何とか全文を読むことができたのですが帰阪後に『伝統古典尺八覚え書』という故値賀氏の労作の90ページにその全文が掲載さ
れていることを知り、今更ながら氏の尺八史の研究の深さに脱帽した次第です。
( picture 5 )遺墨墳の裏(文面)
尺八を携帯していましたし周りに誰もいなかったので「手向」を献曲してもよかったのですが、草むした一角の石塔を見るに付け「夏草や 強者どもが 夢の跡」の一節が浮かんできましたので合掌してその場を立ち去りました。
馬橋駅まで戻り急いで一月寺の展示コーナーのある松戸市立博物館へ行きました。
2階の一月寺コーナーに入りますといきなり等身大の虚無僧像が突っ立っていて驚きます。天蓋を被って尺八を吹いている姿は少々生々しすぎるよ
うです。全身茶色の色ですのでよかったのですが、これが実際の天蓋に実際の着物、実際の尺八で手元が蝋人形の肌色なら亡霊を見ている感じがするでしょう。
肝っ玉の小さい自分としては、こういう物は若干苦手でした。
( picture 6 )松戸博物館の一月寺展示室
一月寺の遺品はこの博物館が所蔵しているのですが、その中に一月寺が菩提寺である今見てきた萬満寺に宛てた古文書があります。遠回しの言い方が文中のほと
んどを占めるのですが、結局「一月寺は萬満寺を菩提寺として頼っています、よろしくお願いします」という内容だと思います。この文書を見て「菩提寺」の意
味もよく分かり、なぜ一月寺の歴代住職の墓が萬満寺にあるのかも理解できました。
O氏にお会いすることができ、また一月寺の遺石を見ることができた今回の旅は大変有意義でした。
私のように遠方に住んでいますと難しいのですが、関東方面にお住まいの尺八愛好家で古典本曲を吹禅されるかたは是非いちど萬満寺と松戸市立博物館を訪れてみて下さい。