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 世界でも稀な「尺八=宗教」(「手向」音声資料) 貴志清一
 
 今から340年ほど前の延宝5年(1677)、廻国修行をしていた虚無僧集団が幕府から正式に「普化宗」という宗教団体として認められ、寺社奉行の管轄下に入りました。その主な活動は「尺八を吹くことによって仏の悟りに近づく」吹禅にありました。
 洋の東西を問わず、古代から宗教儀式などで音楽は重要な役割を果たしてきました。古事記には神の託宣を受ける時に「琴」が神おろしの重要な楽 器でした。キリスト教におけるグレゴリオ聖歌はあまりにも有名です。音楽を禁じた回教ですら、コーランを歌うように唱えることは重要な要素です。
 しかし、それらは一つの宗教上の手段であって、普化宗の尺八のように「吹くこと自体が宗教的活動」というのではありません。
 この点、日本の普化宗が世界でも稀な宗派だといえます。
 厳密に言えば、尺八を吹奏することによって自分の中の「仏性を見る=悟りを得る」なのですが、その派生的な要素も付随してきます。
 亡くなった人がいれば尺八で供養します。竹保流の本曲に「虫供養」というのがあるそうですが、「虫」ですら生あるものとして「供養」するのですね。
 江戸期を通じて永らく虚無僧は廻国修行をしていました。往来で、人家の前で尺八を吹きます。今のような「合理的」な発想ではなく、昔の人はもっと素朴な信仰に生きていました。その中では現世利益的なものも否定せず、雑多なものすべてを含んだ世界に生きていたのでしょう。
 虚無僧が妊婦に向かって「三谷」を演奏すると安産すると言われていました。それは「三谷」が「産安」に通じるからです。
 また、「瀧落」を産婦に対して演奏し、その吹いた尺八の管に少量の米を通し粥を炊き、産婦に食べさせると母乳がよく出るともいわれていました。(塚本虚堂『古典尺八及び三曲に関する小論集』p295)
 以上のことを見てきますと古典本曲の『手向』こそ、題名も哀調を帯びた音の流れも正に"供養"にふさわしい曲だと思います。
 特殊な手が少ないので琴古流や都山流の奏者でも心して学べば演奏できる曲です。尺八奏者共通の名曲が「手向」だと思います。
 私も海童道祖の道曲で「手向」や「三谷」を吹きたいので、我流ではいけないと思い横山勝也直門の素晴らしい奏者、石川利光氏に何回か個人指導 を受けました。「手向」と「三谷」しか吹けませんが、それで十分楽しむことができます。とくに「手向」は折に触れて心を込めて演奏したい曲です。ただ難し いのは、手向はあまりにもよくできた曲ですので、ややもすれば「外見」だけの演奏になり"心を込めて"という吹禅の精神が置き去りになりやすい危険性もあ ります。特に回りに人がいるときにはそうです。いわゆる「パフォーマンス」に陥りやすいということです。このとき,吹禅の精神を忘れて虚無僧装束でも身に つけていますとまさに「虚無僧コスプレ」(コスチューム・プレゼンテーション=衣装の見せびらかし)になってしまいます。気をつけたいところです。
 
 前置きが長くなりましたが、所用で奈良に行ったとき二上山に立ち寄りました。下山道の途中に天武の子で女帝持統天皇から死を賜った悲劇のミ コ、大津皇子の古墳がありました。誰も居ない時でしたので墓前で「手向」を吹かせていただきました。今回はその時の記録です。琴古流奏者の吹く「手向」で すが、お聴ききになりながら以下の報告をお読み下されば幸いです。

 (音声資料「手向」)
下記をクリックしてください。
https://comuso.sakuraweb.com/music/334-tamuke.mp3
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 2016年3月24日晴れ
 奈良の飛鳥地方から大阪に抜ける古い官道の竹内街道沿いに万葉の森があります。ここが二上山の登山口になっています。
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 しばらく登っていきますと岩屋という所につきます。奈良時代の石窟寺院らしいです。有名な中国の敦煌や雲崗などの大規模なものではありませんが 古代の渡来人でしょうか、仏教を信仰する人々が何らかの形で中国やインドなどの石窟寺院のことを知っていてそれに倣ったものと思います。
 3  上り詰めれば二上山の雌岳です。今は「にじょうざん」とも読みますが本来「ふたかみやま」で大和からみれば左が雌岳、右が雄岳の駱駝の背のような山です。古代、山そのものが神さまでご神体でしたから雌雄二人の神様の山で「ふた・かみ・やま」となります。
 雌岳からの展望はよく、南に山と葛城山とその奥の金剛山が連なります。「金剛山」は大阪の最高峰ですが朝鮮半島にも同じ名前の「金剛山」があり、古代の東アジアの交流が窺えます。
 4  目を東に転じますと飛鳥を含む古代大和の地が一望できます。
 5    ここから南南東を望みますと近畿の最高峰八経岳の手前の雄大な弥山がうっすらと見えます。大峰登山を重ねていらっしゃる方は「あっ、この形は弥山だ。」と 分かるでしょう。吉野から山上ヶ岳を通り奥駆け道を踏み分けて次の唯一の山小屋のある弥山。しかしその登りは胸突き八丁の厳しい登りです。ここから更に釈 迦ヶ岳を通り前鬼から玉置山、そして念願の熊野大社に行く道です。
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 1980年ですから今から36年前、私は弥山にたった一人で登りました。弥山小屋で泊るまでは良かったのですが次の日、あろうことか弥山川を 下るというとんでもない下山道を選びました。無知ということほど恐ろしいものはありません。熟練した沢登りの上級者でもこの弥山川は登りにしか使いませ ん。それを山登り初心者なみの若者(馬鹿者)がたった一人で下って行ったのです。今でこそ鉄のしっかりした階段などが要所要所に架けてくれているのですが 当時は整備もいい加減なものでした。
 いちばん危なかったのは双門の滝付近で次の踏み跡まで高さ数mも何にもないところに出てしまい、戻ることもままならない場所でした。今こうし てワープロを打っていても当時のことを思い出し手に汗ばんできています。残る手段は草を掴んで直登に近い登りだけ。リュックは装備・食料・燃料と15kg は有ったでしょうか。両手で草を掴みながら足で高さを稼ぐのですが足がスリップする度に「もうあかん」と心で叫んでいました。もう少しで平らなところなの ですが筋肉の消耗が激しく力が入りません。少しでも力を抜けば100、200メートルはあるかと思う双門の滝に真っ逆さまです。このときばかりは「死」を 覚悟しました。言葉ではなく体全体で「ああ、ここで死んでいくのか」と感じました。力を抜かずに滑落の恐怖と戦っていたのですが、もうダメかと思った地点 は平になった踏み跡のすぐ手前でした。助かったのです。心身ともにぐったりとなりしばらく呆然としていました。
 しかし早く下山しなければと気を取り直し、危ない箇所も多々あったのですが何とか死にものぐるいで下って行きました。本当はその日に河合のバ ス停に出る予定でしたが疲労困憊ということでその日は河原でビバーグです。食料は豊かに持っていました(だから重い!)から遭難ではありませんが、まあ半 分遭難したようなものでした。
 今から思えば尺八の神様なんかが「この子は、もうすこし生かして尺八を吹かせよう」と閻魔大王に掛け合ってくれたかも知れません。
 それは冗談として、二上山から弥山を眺めますと右に頂仙岳がうすく見えているようで、その中間が弥山川なので感無量でした。
 二上山から随分それてしまいました。雌岳の向かいに雄岳が手に取るようです。
 
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時間が無かったので宮内庁が管理する大津皇子の墓がある雄岳にはいけませんでした。馬の背という峠から一気に當麻寺方面に下っていきました。
 途中綺麗な細い渓があり清涼な水が流れています。思わず大津皇子と交流のあった志貴皇子の歌、
いわばしる 垂水の上の 早蕨の 萌え出づる 春になりにけるかも を思い出します。
 
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 私はこの歌が大好きで、この歌の情景を描写したかもしれない長澤勝俊の「萌春」も気に入っている曲です。
 やっと山から抜け出し人家にちかくなりますと奈良県指定史跡の鳥谷口古墳があります。
 
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 実はこの古墳こそ自害した大津皇子を弟思いの姉である大来皇女が再度埋葬した墓だといわれているのです。雄岳の宮内庁管轄の墓はどうも後世に設 定されたと思われます。第一、ご神体である二上山の頂上に墳墓を持ってくること自体異常です。皇室関係の墓で500mの山の頂上にある墓というのはここぐ らいでしょう。歴史の素人考えでは、やはり無念を飲んで亡くなった皇子なので祟りを恐れてできるだけ人家から離れたところに祭るという考えがあったと思わ れます。その地で没したとはいえ、金比羅山に近い、これまた無念を飲んで亡くなった崇徳上皇の墓が京都から遠いと言うことも思い出させます。勿論崇徳上皇 の場合はパワーがあるので京都の白峰神社でも祭られていますが。
 さて弟思いの大来皇女は大津皇子を再度埋葬するときに詠んだ歌が万葉集に残っています。
 (大津皇子を二上山に移葬したときの歌)
   うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 
       二上山を 弟背(いろせ)とわが見む
 
 この時代はまだ皇子級のお墓といえば石棺のある古墳でした。それを500mもある雄岳の頂上に作ること自体不自然です。この鳥谷口古墳が再度 埋葬された大津皇子の墓と納得したのは、この墳墓から丁度飛鳥方面が展望できる場所にあったからです。谷道から出てきて左側に小高い丘があり急に視界が開 けて大和盆地が見渡せます。大和三山がきちんと眼下に見渡せるのです。大来皇女はこの場所こそ大津皇子が華やかな青春時代を過ごした飛鳥の地を永遠に見る ことができる場所だと考えたのでしょう。
 
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 「鳥谷口古墳」を実際に見に行って、そこから広がる景色を見た瞬間これが大津皇子の再埋葬された墓だと推測できたのですが、やはり何事も自分自身で実物を見たり実際に出かけたりしなければならないと再確認した次第です。
 日暮れにはまだ時間がありましたし回りに誰も居なかったので古墳の前で「手向」を吹かせていただき、再度手を合わせてから當麻寺へと急ぎました。
 當麻寺に着いたときには5時を回っていましたので拝観は終了していました。幸い門は開いていましたので中に入りそこから見える二上山の姿をしばらく眺めていました。
 日常の慌ただしさをしばらく忘れ、万葉の歴史に思いを馳せることができたよい山登りでした。