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HP会報 323号
(2016年1月25日付け)
竹保の卓見
-尺八の今日的課題は40年前に解決済み-
前回の会報No.322にて二代目酒井竹保は音楽に対しては純粋であり、誠実な人物だったことを述べました。
竹保は海道童祖にも比すべき名人であったばかりでなく、尺八の歴史とその将来について素晴らしい卓見を持っていました。
彼は40年前に既に
・「地無し管か地塗り管か」
・「西洋楽器との合奏」
・「多孔尺八やオークラウロ」と言ったような今日的課題に対しての明確な解答を示しています。
晩年が不幸だっただけに竹保は忘却の彼方へ消えてしまいましたが、彼の素晴らしい遺産は尺八愛好家の財産です。この竹保の卓見も後進に対する優れた贈り物だと思います。
今回は1978年3月号(昭和53)の『月刊ハミング』に掲載された間宮芳生との対談から酒井竹保の卓見を見ていきましょう。
この『月刊ハミング』はある出版社のPR誌で読んだ人は少ないと思います。しかもある時期だけの物ですので大きな図書館や古書店でしか見ることができません。
もし大きな図書館で抜粋コピーできない遠隔地等にお住まいの方は尺八吹奏研究会事務局(〒590-0531泉南市岡田2-190-7)に直接封書で「竹保対談希望」と明記し、82円切手2枚同封してお申し込み下さい。
(メール等でのお申し込みは受け付けておりません)
○本文に入ります。
(竹)は二代目酒井竹保の発言、
(芳)は作曲家・間宮芳生(みちお)の発言です。
1.〈地無し管、地塗り管はどちらかを捨て、どちらかに専念するものではない〉
ここ数年の間に静かな「地無しブーム」現象が見られます。先日もある方から「地無し尺八の製作者のお話をぜひ聞きたい」とのお問い合わせがあ
り、かなり長い時間説明させていただきました。もしかすると地無し管を購入し、「地無し一本でいく。」との悲壮な決意からの問い合わせだったかもしれませ
ん。
それでは竹保師はどのような卓見をお持ちだったのでしょう。
(竹)昔の本当の普化尺八は中の節を残して、全然、地というのをしてないんです。・・・ただ節を抜いただけ、そこに漆を一塗りしてあるだけの、そういう素朴な尺八だったわけです。
(芳)中の太さはそろえるわけですか?
(竹)いえ、そんなことはございません。それをしないで、音律でそろえるようにしております。だから、調律が非常にむずかしい。
(芳)[尺八の]いい音というのはあるわけですか。
(竹)あります、いい音色。
-中略-
(竹)地のしていない、ただ節だけを抜いて、節を削ることによって調律をした古鏡という尺八が私の所に一管あるんです。
古鏡というのは、今から200年か250年ほど前の名人の作で、「刀は正宗、尺八は古鏡」と世にうたわれたんです。その人の作の三尺管が私の所にありますけど、中をのぞきますと、節がそのまま残っておりますね。
そういう素朴な音色の竹は、はっきり家族の者にもわかります。「今の尺八はもの凄いいい音色だ〉というんです。だから、部屋の中で本当に小さい範囲内の人たちに聴かすならすばらしい音色だということです。
ところが国立劇場のような会場では、マイクでもつければ別ですけれども、音色はいいんだけれども、後ろまで通らない。
-中略-
(竹)[一方]地のしてある竹は、音が非常に金属製に近い音色になるわけですね。尺八もやはり、地を堅くしてありますから金管楽器に近くなった
ような音色になる。いわゆる〈竹が鳴る〉というよりも、共鳴部分の、中の漆で固めたものがピューと冴えて鳴るので音が通るということになるんじゃないかと
思うんです。
-中略-
(竹)・・・だから、曲に応じた用い方をした方がいいと思います。
(竹)たとえばわれわれの方でしたら、いわゆる古典本曲とかいったものを演奏する場合は、できるだけ昔の形に近い尺八を用いる。
三曲合奏とか、ことにヨーロッパの音楽の影響を受けた、新しい邦楽を演奏するときには、改良された楽器を使った方がいい場合がある。また現代
邦楽となってきて、間宮先生のように古典の素材を取り入れて作曲なさったような場合は、そういう[改良された]尺八を利用しないといかんというようのこと
になってくるわけですね。
【卓見①】地無し管を吹くとよいのか、地塗り管を吹くのがよいのか、というのではなく、「曲に応じた用い方」をすればよいという極めて自然な考え方でいいと竹保師は述べています。
ですから、地無し管を練習し、また今までの地塗り管もしっかり練習すればいいのですね。古典本曲は地無しでふいて、山本邦山の「壱越」などは当然ヨーロッパ音楽の影響を受けた曲ですので地塗り管が適しています。
【卓見②】
地無し管を賞賛する余り、"地無し管は遠音が差す"というのを誤解して"地無しは音が通る"と考え、琴との合奏でも"地無しは音量はないが、客席の後ろまで良く聞こえる"と信じている少数の奏者がいます。
しかし、竹保も述べているとおりで、ホールではやはり固い内部の管がピューと鳴っる地塗り管のほうが、もちろん音が通りますね。
竹の特性を生かすような柔軟な発想が大切だと竹保は教えています。
2.「西洋楽器との合奏」
最近目立ってきたのがピアノやバイオリンとの合奏、そしてドラム・ベース・ギター等との合奏です。
普通に考えると、音量の大きさを求めてこなかった尺八は、やはり他の西洋楽器や電子楽器の中に入ると絶対的な音量不足が感じられます。また琴
のおさらい会で、十七絃入りの琴10面ほどの合奏に尺八1本という形も見られます。顔を真っ赤にして必死に音量作りに励む尺八奏者は、もう音楽以前の段階
でしょう。竹保の意見を聞きましょう。
(芳)尺八とパイプ・オルガンなんておもしろいんじゃないかと思う。
(竹)音量的には尺八が完全に負けてしまいます。いまモダン・ジャズなんかでフルートがやっているように、楽器自体にマイクを組み入れでもしないと。私の弟子の一人がそれを試みかけています。
尺八にもそういうものができてきましたから、どんな楽器とでも対応し、また変わった世界の音楽が開けていくと思います。
【卓見③】
この記事が書かれた1970年代というのは、まだまだ「尺八で大音量を出すこと=上手い」という時代でした。その名残が未だに残っているようで、グランドピアノとマイクなしの尺八で、結局尺八が何を吹いているのか分からない演奏もよく見ます。
その点、ドラムス・エレキギターなどと合わす尺八奏者はマイクを使うことは当たり前という自然な発想をしています。
竹保はこのマイクによる合奏の広がりを好意的にとっているのは卓見というべきでしょう。
尺八も、「また変わった世界の音楽が開けていく」と述べていますから。
3.「多孔尺八やオークラウロ」について
最近オークラウロを再現して演奏するという企画がみられます。
イベント、もしくは歴史的研究としてなら面白いのですが、わざわざそれによって有料の演奏会をしなくてもいいのにと思います。
この点に関しては40年前の竹保はどういう意見だったのでしょう。
(芳)尺八の場合、楽器を改良するということはどうなんですか。
(竹)改良の運動も、もう早うからやっておられる方もあるんです。多孔尺八を追求していって21孔の尺八をこしらえた、その方はもう亡くなりま
したけど、私、見ました。それは大変なものでした。結局、尺八の改良は音階がたくさん出るということで、多孔に移っていくわけですけれども。また、オオク
ラウローという楽器で、大倉さんとおっしゃる方が弁のついた尺八を造ったこともあります。
そういう運動もしてきましたけれども、なぜか5孔に落ち着くようですね。
(芳)それがなぜかということなんですね。
(竹)やはり音色が変わっていくんです。微妙な指のすり上げとか、メリとかハリとかによって出る音色が、尺八の一つの絶対的にゆるがせない個性
であるということですので、穴さえあければ正しい音が出るというふうになってきますと、最終的には尺八から離れた楽器になって、フルートのようになってい
くわけでしょう。
【卓見④】
尺八は5孔に落ち着く。それは「音色が変わっていく」ことによって尺八が「尺八でなくなっていく」ことを意味する、というのは当たり前なのですが、竹保の卓見だと思います。
尺八吹きが「尺八でないものを吹く」というのは明らかに矛盾です。7孔尺八は動きの速い新曲・現代曲を吹くために定着した観がありますが、それ以上の多孔尺八、ましてやオークラウロなどは不要だと思います。
この「音色が変わる」という鋭い指摘は尺八愛好家全員が肝に銘じておくべき言葉だと思います。
その他、虚無僧の歴史や日本音楽と西洋音楽の比較論など、たいへん興味深い対談がたくさんありますが、主要な今日的課題については以上の通りです。
40年以上前に、これらの問題について明快な解答を出していた酒井竹保の幅広い知識と深い洞察にただただ感心するばかりです。